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彼は漱石
ぼくと鴉と七匹の子猫
機動戦士ナナちゃん
猫教
ちょっとしたタイミングの変化






青と黒
誰にもみえないのぶおくん
押せないボタン
3Dプリンターとわし
迷惑推進条例


  『彼は漱石』


 耳を(つんざ)く目覚ましの音。腹部に重量感。黒っぽい縞模様の猫がうつ伏せの大の字で寝ていた。俺が飼っている猫ではない。朝、なぜか必ず布団の上で寝ているんだ。古びた家は台所の床が抜けており、そこから侵入してくるらしかった。その頃、現代国語で夏目漱石の授業が行われていた。偶然にも漱石の猫の特徴と似ていたので、『漱石』と名付けた。
 漱石は高校までついてきた。電車に乗り込んできて俺の膝の上に乗った。好奇の目にさらされて迷惑だった。なぜ金魚のフンみたくつきまとうようになったのか、きっかけらしきことはある。通学中、木陰で死んでいるような猫を見つけ、息があったので見捨てるのも悪いと思い、元々よくサボっていたのでためらいなく学校をサボって病院に連れていったんだ。病気だったらしく、バカに金が掛かった。元気になると、拾った場所へ放った。猫はあっさり俺の前から消えた。が、次の日の朝、どうやって俺の家を突き止めたのか、猫は布団の上で寝ていやがったんだ。
 漱石は学校のひと目のつかない場所で寝ているようで、下校になると俺が来ることをわかっているかのように合流してくる。
「お前、もしや夏目漱石の生まれ変わりとかじゃないのか」
 そんな冗談を口にしておいて、ふと恥ずかしくなった。漱石は尻尾を立ててただ俺の横を歩いていた。

 俺と漱石は、やがて動物番組で紹介された。調子に乗って日記ブログを立ち上げれば、かなりのアクセス数を稼ぎ、広告収入を得られた。鼻も高くなった俺だが、すると恐怖が膨らんでいった。寿命のことだ。漱石は六歳ほどの猫だと獣医は言っていた。人間でいえば、だいたい四十歳。まだ長生きはできるが、いつか別れがくる。それが無性に怖くて、漱石の健康管理にはよく気をつけた。
 形に残る何かを残したいと思った。それで俺は閃いた。バカな発想かもしれないが、夏目漱石と同じものを書こうと思い至ったんだ。現国の教師に小説の書き方を教わった。先生は小説の技法に詳しくなかったので、夏目漱石の本をたくさんくれた。毎日それを読んで学び、パソコンで物語を綴った。

 小説が完成したのは二年後で、俺は高三になっていた。先生は出来に感動した。勉強をしない生徒だったから余計なのだろう。兼ねてより貯めていた金で、自費出版した。
 予想外にも本は完売した。当然批判があった。漱石というペンネームを語り、更に作品をパクったようなものだから。でも内容は全く違う。俺が書いたのは、猫の漱石の視点で不良高校生の人生を描いた青春小説だった。
 出版社が目をつけてくれて、あとは販売のプロに一任した。出版社はいいように作品を売り込んだ。「天才文学高校生」「夏目漱石の再来」など。本はヒットしてしまった。元々、猫の漱石が有名になっていたから注目されただけだ。漱石の名に恥じぬよう、先生の協力もあって文体を夏目漱石に似せたが。
 大学に進むつもりだったが、最初の本の収入があまりにも多くて、俺は進学を止め、プロの作家として生きる道を選ぶと決めた。

 耳を劈く目覚ましの音。腹部には──
「あれ、漱石がいない……!」
 家を飛び出し、捜索したが、どこにも見当たらない。胸騒ぎがした。こんなことは初めてだった。
 通学路の途中、猫が横たわっているのを見つけた。俺は名を叫んだ。ひと目でわかった。傍に駆け寄り、
「…………」
 声を失った。漱石は息をしていなかった。
 それでもすぐに病院へ連れていき、漱石を治してほしいと必死で懇願した。獣医は落ち着いた声で説明した。野生の期間が長かったために寿命も短くなってしまったらしい。漱石は八年ほど生きた。人間年齢で四十九歳……。俺とはたった二年の付き合いだったが、その時間が濃厚過ぎて信じられなかった。俺はその日、漱石と眠った。
 お別れをしなければいけない。腹を括り、斎場に連れていった。本を一緒に燃やしてほしいと頼んだ。漱石は荼毘(だび)に付され、俺は祈った。俺の人生を変えた漱石。お前はただ傍にいただけだったけれど、それだけのことが俺を導いてくれたんだ。……大学に行こう。良いところには入れそうにないけど、漱石に恥じぬよう、もう少し勉学に励みたいから。
 斎場を出ると、信じられないことに大勢の人がいた。地元の新聞社のインタビューを受けたが、何も答えられなかった。ただ深くお辞儀をした。漱石のファンの泣き声と念仏と感謝の声に溢れていた。それが、誇らしかった。涙を止められなくて、その姿は一切隠すことなく、俺は堂々と、斎場を立ち去った。












  『ぼくと鴉と七匹の子猫』


 (カラス)が子猫を(ついば)んでいた。
 それを発見したとき、脳が溶けるような、喩えるならシャブを打ったときに近い感覚がおとずれた。産まれたての新鮮な子猫たちを、鴉たちが美味しそうにいただいている。ぼくが近づいても離れない。鴉は必死に生きている。子猫もにーにーと鳴いて必死にもがいている。母猫の姿はどこにもなかった。
 鴉は逃げないから、今すぐドラッグをやってこの光景を眺めたくて、急いで家に戻った。金庫から袋に入った乾燥大麻を出す。缶珈琲を開けて一気飲み。でも飲む必要はないことに気づいて半分は流しに捨てた。中に大麻を落として底をライターで炙り、吸引する。そうしながら外へと出ると、通りにパトカーが走ってきた。慌てて珈琲を飲むふりをして、大麻が口の中に入る。パトカーが過ぎていくと唾液と一緒に吐き出した。
 鴉の元に戻ると、ほとんどの子猫は息絶えていた。頭と胴が切り離され、それでも微かに手足が動く子猫もいる。大麻のお蔭で二種類の鳴き声が心地好い音に聞こえた。涙が滲んでくる。喰う存在と喰われる存在、二つの音が絶妙に調和して、真っ直ぐとした生をぼくに訴えかけているようだった。以前ドラッグをやりすぎて、この世の全てが絶景のように見える状態になったときがあった。そのとき桜並木を歩いたら、(けが)れた脳みそを散弾銃(ショットガン)で吹き飛ばされたような衝撃を受けたんだ。自分がちっぽけな存在に思えて、宇宙の流れの、そのあまりに強大さに打ち震え、圧倒された。いま、あのときに限りなく近い感慨を受けている。誕生したばかりの子猫とそれを貪る鴉。みんな、なんの理由もなしにこの次元に発生したんだ。ぼくもそうだ。そして時間の流れの上で生命の音を刻んでいる。子猫と鴉とぼく、すぐそこに生える雑草や転がる小石だって、一つの宇宙誕生から一筋の莫大な時間の積み重なりの上にあるモノだ。
 世界が、輝いてみえる。真っ青な空が眩しい。ぼくに吹きつける風が信じられない現象のように感じられる。
 満腹になった鴉たちは飛び去っていった。血生臭いにおいが漂っている。子猫は六匹いたようだ。ぼくは名前をつけていった。レミニセンス、那由他(なゆた)、ロンギング、ラブ、クリスティーナ、マリファナ。みんな、ぼくの頭のなかで生きる。鴉の糞となって地上の栄養にもなる。別の形で生きていく。この宇宙が終わるまで、ずっとだ。
 にー。
 微かな鳴き声が聞こえた。音の発生源を探るようにうろつくと、物置の陰に焦げたような子猫が存在していて、強烈な感銘を受けた。こげ茶の柄だった。鳴き声が良く聞こえ、涙が溢れ出てきた。手に取ると、無傷であることがわかる。空腹の鴉が見たら涎ものだ。
 バサバサと音がした。一羽の鴉が、ぼくの近くに舞い降りた。
「これが欲しいのか?」
 鴉は鳴いた。共鳴するように子猫も鳴く。鴉の方が高等生物だから、あげたほうが良い気がする。でも運命に任せようと決め、携帯のサイコロアプリを立ち上げた。偶数が出たら鴉のもの。サイコロを振った──出た目は、
「4……!」
 偶数だ、しかも4! 死だ! すごい、なんて素晴らしい奇跡的な偶然だ!
「よかったなあ、4が出たぞ、これはお前の空腹を満たすものだ」
 鴉はカーと嬉しそうに鳴いた。ぼくは笑って珈琲の缶の中のにおいを嗅ぎ、片手で子猫を差し出す。鴉が寄ってきた。
 だが、ぼくは悪戯っぽく鴉に息を吹きかけた。鴉は羽を動かして後退する。
「なあ鴉、運命がお前に何かを与えてくれるわけじゃない。今までずっとお前が運命を切り開き、今日まで生を勝ち取ってきたんだ。運命が素敵な未来をくれていたわけじゃない。ぼくはお前とぼくと子猫の存在を宇宙に証明するため、お前にこれを与えない」
 鴉は同意するようにカーと鳴いた。子猫もにーと鳴いた。ぼくは満足げに頷いてから、缶の中身を鴉の前にぶちまけた。それからぼくは子猫たちの前に立つ。マリファナと名付けた一匹に向けて言う。
「お前の名前をファナに改名する」子猫をファナに見せた。「で、こいつがマリだ」
 マリはにーと嬉しそうに鳴いた。ファナのズタズタになった血まみれの頭も、喜んでいるようなふうに見えた。ぼくはマリのにおいを嗅ぐ。マリファナみたいな良いにおいがした。鴉はマリファナを啄んでいる。
 マリを金庫に入れた。息が吸えるよう少し隙間を開け、逃げないように適当な荷物で塞いだ。携帯で必要なものを調べる。子猫用粉ミルク、哺乳瓶、ケージ、猫用のベッドとトイレ……。
 外に出たとき、鴉はまだマリファナをやっていた。あれがぼくの最後のマリファナだったから、存分に愉しんでもらえて、ぼくはひどく幸せだった。












  『機動戦士ナナちゃん』


 名鉄百貨店、セブン館の前に設置されたランドマーク。身長610cmのナナちゃん人形が動き出して一か月が経過した。その頃、一年ほど前から動き出していたお台場のガンダム像が、琵琶湖で謎の死を遂げた。元は銅像だから死ぬはずないと誰もが言っていたのだが、ネットにあげられた写真をみれば一目瞭然。頭部が外れ、アームユニットもレッグユニットもバラバラ。一部は琵琶湖に沈められていたそうだ。
 容疑者には、ナナちゃん人形があげられていた。なぜなら、二体は夜中にひっそりと共に行動する姿を目撃されていたからだった。
 この事件には、ガンダムとナナちゃん人形のファンであるイギリスの弁護士、アドルフが来日し、裁判で弁護することとなった。ナナちゃんはあまりにも大きく、目立つため、夜に野外で裁判を行うことに決まった。

 裁判当日。
 アドルフは弁護士にも拘わらず、ナナちゃん人形を一切、弁護しなかった。それは当然だった。なぜならアドルフはどちらかというとガンダムファンで、ガンダムが琵琶湖に沈められたニュースをみて一晩中泣きはらしたのだ。
 陪審員たちの心証は悪くなる一方だった。そうして、ナナちゃんは懲役七年の実刑判決を受けた。
 しかし彼女を収容する場所がなかった。アドルフは言った。
「彼女にガンダムの格好をさせ、お台場に置こう」
 こうして、ガンダムのコスプレをしたナナちゃんは、お台場に移設されることとなったのだった。












  『猫教』


 宗教とはなんなのだろうと、私は辞書を引いた。
『神や仏など人間の力を超える絶対的なものの存在を信じ、それを信仰すること』
 そう記されている。つまり、人間の力を超えるものの存在を信仰すれば、それは宗教なんだ。
 例えば、花は人間ではない。風や、晴れ渡る青空も人間ではない。だから、花に水を()ることも、外で風に当たり自然の心地好さを感じることも、広義に解釈すれば、宗教なのではと思う。
 例えば、私はこよなく猫を愛している。あれも人間ではない。猫は凄まじい跳躍力、嗅覚などを備えている。そこは人間の力を超えているから、私が猫にご飯をあげるのも、撫でまわすのも、同じく宗教なのでは、と思う。
 家で飼う猫だからいいのだが、時折、外で野良猫がぺちゃんこに轢殺されている姿を目にする。信仰している存在でも人間の発明である車によって殺される。そう考えると、猫を愛でるのは宗教とは違うのだろうか。そんな疑問を抱いた。
 足の小指をちろちろと動かしてみせる。私の神様≠ェ、指に飛びついて甘噛みをしてきた。スキをつくように背中を撫でる。すると今度は私の手の指に食らいつく。オモチャの猫じゃらしをそっと取り、さっと目の前で振ってみせる。すると神様≠ヘ勢いよく猫じゃらしを追い始めた。それを宙に放ってみせると、神様≠ヘ人間の力を超えた大ジャンプを見せてくれた。
 何度見ても凄いと思う。その瞬間は、やはり間違いなく宗教の信仰≠ネのだと感じた。
 宙で猫じゃらしを口でキャッチした神様。地面に降り立つと、私は、両手をパンと合わせて拝んであげた。
 すると神様は猫じゃらしを放って、そんな私の小指に食らいついてくるのであった。












  『ちょっとしたタイミングの変化』


 眼鏡が落ちている。
 それが視界に入った瞬間、私はなぜか掛けてみたいと思い、拾って掛けた。もしかしたら、その眼鏡は神様が地上に落としたもので、掛けた人間は世の真実の全てが見えるようになるかもしれない──そんな妄想をしたのだ。
 しかし実際に見えたのは、ひどくさえない、醜男(ぶおとこ)だった。
「あの、すいません。それ僕のなんですけど」
 もしかすると男は妖精とか神の使いとかで、眼鏡を掛けていなければ見えないとかいう設定で、眼鏡を拾ったお礼に何か特別な力をくれるのでは──そんな妄想をした。
 けれど、眼鏡を外しても男は見えるし、私が「あ、すみません」と謝って返却しても、男は無愛想に眼鏡を受け取って掛けて、さっと背を向けて去っていくだけだった。
 何も起こらない。当然だ、ここは現実の世界なのだから。漫画の中でもない。アニメの中でも、ゲームの中でも、小説の中でもない。これがもし恋愛ドラマだったら、最低限、さっきの男は若干イケメンで、連絡先を交換して恋に発展するのだろうけれど。
「はあ」
 私は歩きだす。男と同じ方向に。目的の駅はそっちにあるのだから。
 ──突然、大きな物音が鳴った。
 少し離れたところで、それは聞こえた。何が起きたのかと、私は歩度を速める。
 駅の交差点が渋滞していた。その中央で、車が玉突き事故を起こしている。
 嫌な予感がして、私は、おそるおそる近づいていった。
 歩道に寄った場所に、血のついた、壊れた眼鏡が落ちている。
 ……さっき、私が掛けた眼鏡だった。












  『青と黒』


 久しぶりに外へ出た。本当は今日も引き籠もっていたかったのだけれど、窓外(そうがい)に目をやると、あまりにもすがすがしい秋晴れだったので、つい足が外の世界へ伸びてしまったのだ。ただ、私の性質上、どうしても人目につくような場所は通りたくなくて、結局、陽光の届かぬ狭い路地へと逃げ込んでいった。
 ポケットからスマートフォンを取り出す。万歩計機能があるので歩数を確認。……五百歩。数字だけみればかなり歩いたように思えるが、外に出てまだ数分も経過していない。
 ふと黒い影が手元を横切る──
 急なことに身がすくんで「みゃん」というおかしな悲鳴を漏らしてしまった。その素早い黒い影が地面に降り立つ。
 それは、黒猫だった。なぜか口にスマートフォンをくわえている。
 ハッとした。自分の手元に視線を戻す。そこには何も無い。私の左手が何かを持っていたような形を保っているだけ。
 スマートフォンをくわえた黒猫が、身軽に駆け出す。
「こ、こら、待て!」
 私も一緒に駆け出した。だが人間の脚力では猫に到底勝てるはずもなく。猫は時速約四十八キロで走り抜けることができるのだと、以前雑学の本で読んだことがある。ロードバイクでもない限り、自転車でもそんな速度は出ない。
 ただその猫は、私をおちょくっているのか、私が猫の姿を見失わないようなスピードで走っていた。

 何分走り続けただろう。私の大嫌いな潮風のにおいがするので、たぶん十分以上は走っていただろう。そろそろ力尽きて地面にぶっ倒れようかというころ、突如として猫はスピードを上げた。あっという間に視界から消えてしまう。
「ちっ、くっしょおおおおおお!」
 つい腹の底から声をあげてしまった。あまりにも馬鹿にされすぎて、怒号が飛び出すのは当然のことだった。
 私は、もう携帯を諦めて、どこかで腰を休めようと、ゆっくりとした足取りで動いていく。と、ようやく壁のような堤防が見えた。三メーターほどの高さがあり、急な階段が備え付けられている。……ここに来たのは何年ぶりだろう。
 この階段を上るのが怖くて、駄々をこねた小さな頃の私の姿が脳裏によみがえる。先に行ってしまった姉と兄。結局家に帰った自分。それが私の記憶の中の、最後の二人の姿。
 おそるおそる、階段を上りはじめる。
 上りきり、潮風を全身に受けた。視線を風の向こうにやる。真っ青な海面が果てまで伸びていた。海を見ているだけで、火照っていた身体は悪寒で冷えてくるようだった。
「にゃあ」
 左耳に突然、声が飛び込んできた。
 私はよろけてしまい──だが腕を掴まれて、転ばずに済んだ。目の前には、真っ黒な猫の絵がプリントされた長袖のTシャツと黒のスキニーパンツを着ている男。そいつは、左手に、スマートフォンを持っている。
 それはどう見ても私の携帯だ。
「にゃあ」
 また、言った。さっきと同じ声。やあ、とでもいうような口調。いったいこの状況はなんなのかと、脳内には混乱が波のように押し寄せていた。
 男が私の腕を離す。直後、私の携帯を放り投げてきた。慌ててそれを宙でキャッチしてみせる。まずいきなり投げたことに対しての怒りが、混乱を吹き飛ばした。
「アンタいったい──?」
 視線を男に戻した、はずだったのだが、居ない。男の姿が消えている。
 慌てて三六〇度見まわした。と、今、階段を下りおえ、町に向かう一匹の黒猫の姿を見つけた。その猫は、道の曲がり角で止まり、私の方へ振り返った。
「ニャア」
 猫の鳴き声で、私に向かって挨拶をする。それから駆け出して、道の向こう側に消えていった。
 振り返って水平線を見据える。私は、呆れのような、諦めのような、そんなため息を吐き出した。
 ……天気が良かったらまた明日もこよう。












  『誰にもみえないのぶおくん』


 のぶおくんは誰にも見えません。
 いつの間にか学校にいて、自分の席が無いのでいつも教室の床に座っています。
 のぶおくんは友達と遊ぶことができません。お喋りの輪に入れません。一生懸命、話し掛けてはみるものの、誰ものぶおくんに言葉を返してくれません。
 のぶおくんには給食もありません。食べたくても、のぶおくんは見えないので給食をもらえません。
 のぶおくんは授業を聞いていることしかできません。のぶおくんは頭が良くて運動神経も抜群で、どんな難しい問題だって解けるし、みんなが飛べない八段の跳び箱を軽々飛べるし、鉄棒でハンググライダーなんてお手の物。縄跳びは大の得意で、三重飛びが何百回もできるのですが、誰にも見えないので自慢することもできません。
 のぶおくんは空だって飛べます。雲の向こう側にも行けるのですが、のぶおくんの姿は見えないので誰もそんなことは知りません。
 のぶおくんはピアノだって上手に弾けます。でもみんなの前で弾くと怖がられるので、それが申し訳なくて、夜にこっそりと弾くことしかできません。
 のぶおくんは校庭に咲く花に毎日水をやるし、飼育係が鳥やうさぎに餌やりを忘れると、代わりに餌をあげる優しい子です。みんなが掃除を不真面目にやると、のぶおくんは代わりに一生懸命掃除をします。ですが、学校のみんなはのぶおくんの優しさを知りません。
 のぶおくんの外見はとてもかっこいい姿をしています。女の子が見たらみんなのぶおくんを好きになってしまうはずですが、のぶおくんは見えないので誰ものぶおくんのことを好きでも嫌いでもありません。
 のぶおくんは面白い冗談だって言えます。変な顔もできます。でも姿が見えないし声も聞こえないので、誰も笑わせません。
 のぶおくんは、いつも先生のいうことを聞きます。みんなが先生のいうことを聞かず、席を立ったり、お喋りしていたりするときでも、のぶおくんだけは黙って床に座っています。ですが先生はのぶおくんを褒めません。
 のぶおくんは出しっぱなしの水道も止めます。流されていないトイレを流します。
 非常に良い子なのですが、誰もそんなことは知りません。

 のぶおくんは学校の屋上に行けます。屋上の扉には鍵がかけられていて普通は入れないのですが、のぶおくんは空が飛べるので関係ありません。
 のぶおくんは学校の屋上でグラウンドを見つめながら泣いています。本当はみんなと遊びたいのに遊べないからです。本当は授業に参加したいのにまともに参加できないからです。本当は先生に褒められたいし、自分のことをみんなに知ってもらいたいのに何も伝えられなくて泣いています。
 チャイムが鳴り、みんなが校舎の中へ入っていきます。のぶおくんは、よく聞こえるようにと声を張り上げて泣くのですが、誰も見上げません。誰にものぶおくんの泣き声は聞こえませんでした。
 やがてグラウンドには誰もいなくなりました。のぶおくんはとても良い子なので、泣きながら地面に下りて、校舎の中へ入っていきました。
 目を赤く腫らしながら教室に入ったのですが、誰ものぶおくんの泣き顔には気づきませんでした。そもそも、のぶおくんが教室に入ってきたことにすらみんなは気づいていませんでした。

 のぶおくんはいつの間にか学校にいて、自分の席が無いのでいつも教室の床に座っています。
 今日も教室の床に座っていて、元気よく手を挙げています。でも誰もそんなことは知りません。
 先生は違う子をあてて、その子が答えを言います。でも答えは違いました。
 のぶおくんは再び元気よく手を挙げました。ですが、先生は違う子をあてました。その子が答えを言いましたが、間違えてしまいました。
 のぶおくんは頭が良いので、ちゃんと答えがわかっていました。
 のぶおくんは元気よく手を挙げます。
みんなは答えがわからず、手を挙げませんでした。
 先生は誰も手を挙げていないと思い、答えを言ってしまいました。
 のぶおくんは手を挙げながら涙を流しました。それでも、健気に、元気よく笑っています。
 そんなことは誰も知りませんでした。
 のぶおくんは幽霊なので、誰にも見えませんでした。












  『押せないボタン』


 森宮美穂の椅子に爆薬を仕込んで一か月が経った。依然、僕はスマートフォン上の起動ボタンを押せずにいる。爆薬は椅子の鉄パイプの中に仕込んであり、綿密な計算の元、椅子の足だけが壊れる量に調整してある。爆破すれば四つの足は破壊され、彼女はさぞ面白い反応をしてくれるだろう。清楚なお姫様を思わせる、容姿端麗な森宮。しかもテストでの順位は常に一位。自他共に認める天才。学年一のイケメンと囁かれる三堂の恋人。何もかもが面白くなかった。好きだとほのめかしただけで交際は無理だと勝手に断言された。三堂はアホなのに、結局は顔で選ぶのか。くそっ。本当は下半身を吹き飛ばしたかったけれど、さすがにそこまで非道ではない。だから恥をかかせる程度にするのだが、それでもいざスイッチを押すとなると、緊張して指が震えた。だが動揺しつつも、森宮の椅子を爆破したときのことを考えるだけでぞくぞくする。一か月間は彼女に対する征服感だけで満足していた。夜、学校に忍び込んで、好きな子の椅子に爆薬を仕掛けただけでも、体中が熱くなって汗や涎やらなにやらの汁が止まらなかった。
 僕が親指をちょっと動かすだけで誰も見たことがない彼女の姿を生み出すことができる。理科の教師が、彼女を当てて問題を答えさせる。僕は机で隠す具合に携帯を構えていた。……表示されているボタンをタップするだけでいいのに。森宮は正解を答え、着席する。背筋がぞくりとして、唇が震えた──
 トン。
 押してしまった。と、爆発音とともに衝撃を受けた。驚く暇もなく、僕の椅子が、落ちた。
 何がどうなったのか、その答えを考える間もなく、次々と爆発音が鳴っていた。みんなが悲鳴をあげている。生徒たちの椅子の足が爆発していた。同時に起こっているわけでなく、どうやら、教室の右後ろ隅に居る僕から始まって、前へと爆破が進み、左の列に移って、今度は後ろ向きに爆破が進み、僕の左隣の子の椅子が爆破されると、今度は横方向に爆発が連続──その間にはもうみんな立ち上がっていて、先生がテロだと叫んで避難させていた。左後ろ隅の席の椅子が爆発すると、前に向かって順番に爆破されていく。突き当たると右隣に移り、そして後ろに爆破が進む。もうほとんどの生徒が教室にいない。突き当たると右隣の席に爆破が移り、残るは真ん中の二列のみとなる。そこからは、右、上、左、上とぎざぎざに椅子が爆破されていき──ようやく最後、森宮美穂の椅子が、爆発した。彼女は未だ着席しており、椅子の足が壊れると、地面に落ちた。
 火災のベルが鳴っている。先生が叫んで避難をうながしている。この教室には、僕と、森宮しかいなかった。
 机の隙間の向こうに森宮の背中が見える。……肩を小さく揺らしていた。彼女はスッと立ち上がると、教室の出入り口を向く。だが顔は、僕のほうを向いていた。
「いくじなし」
 微かな声が聞こえた。天才は、教室を出ていった。












  『3Dプリンターとわし』


 わしの人生が最悪なものになっていく予感は、三十八歳を過ぎる頃に感じていた。いや、もっと前から微かな絶望を感じてはいたのだが。若さという貴重な一時が永遠に続くもののように思えていた。そんなわけなかろう。生きとし生けるもの、皆時間の支配から逃れられない。ストップウォッチを押し、宇宙に見立てた床に放ってみればわかる。カウントを止めることはできない。少し目を放した隙に一分が過ぎておる。小さな時の積み重なりが止め処なく連続し、肉体から生を削ぎ落としていく。目には見えぬ死神に、誰もが取り憑かれている。
 典型的な引き籠もりだったわしは、三十歳を過ぎるまで職につかなかった。四十歳手前でようやく工場に就職した。その頃3Dプリンターを一家が一台所有するようになっていたので、その工場も忙しくて社員を募集していた。わしはそのような物とは無縁だったのだが、年々性能が上がっていき、材料があれば本物と同等の女体を作ることも可能になっていた。他にも可能性はあるのだが、女に触れたことのないわしは本能の赴くまま社員割で業務用のでかいプリンターとスキャナーを購入した。五十一歳のことだった。年収分の金が吹き飛んだが、他に使い道もなかったので構わなかった。
 現実味のある造形を目指すなら生身の女が必要だ。ネット上には同じことをしとる輩が仰山おった。わしもスキャンさせてくれる女を募集し、二十三歳の若い子を呼ぶことに成功した。金を渡しスキャンだけさせてもらった。女が帰ったあと、3Dプリンターを起動させて、ついに女体を作りだした。それはもはや本物と区別がつかん。さっき会った女子(おなご)と瓜二つだった。緊張して、「帰ったんじゃなかったんか」などと訊いてしまったが、もちろん喋らんかった。生き物ではないが、わしは女体を存分に堪能した。
 それからというもの、暇さえあれば女を漁ってスキャンした。ときにグラビアの撮影と偽って芸能人を呼んだ。黙ってスキャンや3Dプリントを行うのは犯罪だが、バレなきゃ構わん。わしは抱ける良い肉体を量産した。作りすぎて置き場に困ると、古くなって腐ってきた女を解体してリサイクルした。スキャンした芸能人のデータを横流しして儲けることも覚えた。すると働かなくとも、ギリギリの生活なら可能になった。わしは面倒になっていた仕事を辞めて女を作ることにさらに熱中してしまった。
 こんなことで時間を無駄にしてはいかん、と我に返ることもある。人形を抱いたあと、急に老いが恐ろしくなってわしは自分が老人になった姿をモデリングしてプリントアウトしたことがあった。そいつを目に焼き付けて堕落した自分を諭したかったのだが、新しい女を作り堪能することをやめられんかった。
 そのうち、(しも)の方が衰えてしまうのだが、それでも女を作り出すことは飽きん。もはやそれが目的となっていた。幾人の女と出会う内に、一度だけ頼み込んで生きた女と性交したこともあったのだが、満足できんかった。肉体だけのほうが気持ち良かった。
 そんなふうに日々を過ごし、天涯孤独の身でついにわしは病に倒れてしまう。九十五歳じゃった。えらく長生きをした。けれど、その人生はひどく薄幸(はっこう)なもののように思える。(とこ)で女子たちを見つめながら人生を振り返ってしまうと、なんとも情けない一生のように感じられた。
 最後の力を振り絞り、古くなった女たちを解体した。使える部分を材料として、保存してあるデータから選択してプリントアウトする。作り出されていくのは、五十一歳のときのわしじゃった。わしは一度だけ自分をスキャンしておった。それはなんのためというわけではなくただの興味だった。
 出来上がったのは完璧にわし自身じゃった。この頃のわしは、自分がひどく老いておると思ったが、そんなことはない。若々しさに満ち溢れておる。結構、顔も男前だ。そう熱弁してやるのじゃが、立っておるのはただの人形にすぎんかった。

 ふと気がつくと、老人がわしに寄りかかっていた。
 ああ、そうだ。自分が老いた姿をプリントアウトしたんだった。
 それは随分とみすぼらしいよぼよぼの爺さんだった。ソフトを使ってモデリングしたものなのにひどく現実味がある。白髪に紛れるふけ、落ち窪んだ眼と目やに、口周りに血まで付着している。口臭もあった。こんな姿になれば、世間は誰も興味を示さんだろう。
 だがわしはまだ五十代。こうなるのはもっと先の話。今を愉しむことのほうが健康にも良いに決まっている。
 わしは新たな女子を探すべく、インターネットブラウザを起動した。












  『迷惑推進条例』


『人に対して、一定の迷惑をかけなければいけない』
 迷惑推進条例を一言で説明するならこうだ。この条例の対象になるのは、人格健診で選出された一定の消極的性格を有する者のみ。引き籠もりやコミュニケーション障害などは単なる甘えだと大昔は言われていたのだが、近代では他人に上手く寄りかかれなかったり甘えることを極度に恐れたりする者が社会的不適応になっていくのだと認知されている。俺が今日担当する被験者Mも、社会生活で支障をきたす重度の消極的性格だと認定されたため条例の対象者となった。三十四歳で無職の引き籠もりだ。男性なので真っ裸にされた。扉の前に立たされ、身を震わせている。俺はモニターの前にあるマイクに口を近づけた。
「じゃあMさん、外へ出ましょう。三時間が経過したら戻ってきてください」
 Mはたいていの被験者と同じように拒むのだが、俺は抑揚をつけずに出てくださいと言い続ける。押し問答の末、Mが扉を開けると目の前には歩道。大勢の人が一斉に注目するので、彼は手で股間や胸を覆った。
「隠さないでくださぁい、条例違反になりますよー」
 違反者は罰金に加え、条例強制期間を延長することになるので、Mは諦めて全身をさらけだした。街のいたるところに監視カメラが設置されている。三十分が経過すると、Mは路地裏に入った。俺はマイクに口を近づける。
「公然わいせつ罪が成立しない場所には行かないでください。奥へ進むと違反になります。場合によっては逮捕されますよー」
 耐えられない、人の居ない場所に逃げたい、とMは訴えかけてくる。罰せられますよ、と俺は繰り返すだけ。直にMは来た道を引き返す。往来に出ると通行人の女性が悲鳴をあげた。俺はマイクに口を近づける。
「今悲鳴をあげた人に、女性ものの下着が売っている場所を尋ねてください」
 そんなセクハラ行為をしたら逮捕される、とMは言う。それをしなければ逆に逮捕される、と俺は返す。Mは観念して女性に歩み寄っていく。しどろもどろに自分の状況を話して、道を尋ねた。正面から捉えたカメラにはMの歪んだ表情がうかがえる。人に迷惑をかけるなと親から言われて育った口なのだろう。理解のある人だったようで、身を引かせながらも丁寧にデパートの場所を教えてくれた。女が走り去ると、「素晴らしい迷惑をかけました。その調子です」とMに称賛を送った。
 デパートの下着売り場に入ると、女性店員に自分に合うショーツを選んでくれと頼むよう指示した。Mはその通りに動いた。見繕ってもらうと、その場で着用させてレジに向かわせる。いつの間にか周囲にはギャラリーができていた。一三六五円になります、とレジ係が告げる。だがM、お金を支払えない。当然だ、一銭も持っていないのだから。Mは、条例でプログラムだからお金は無いなどと下手な説明をした。条例でもお金を払っていただかないと困ります、と店員は正論を述べる。俺はマイクに口を近づけた。
「上手く人を頼って切り抜けてください。それができたら今日はもう自由行動にします」
 そんなぁ、無理です。Mのその言葉に対して女性店員が「じゃあ警察を呼ぶしかないですね」と答えていた。Mは慌てふためいている。積極的な行動が取れない彼には荷が重すぎたか。警察に捕まると手続きが面倒なので、手を差し伸べようとマイクに口を近づけ──
「す、すいません、必ず返しますから、どなたか僕にお金を貸してください!」
 Mが、遠巻きで観ていた人たちに頭を下げて言った。何度も頭を垂れている。そのうち、一人の男性がMに近づいていく。Mの顔がくしゃくしゃになった。男性は財布を出してお金をMに渡した。ありがとうございます、と大声が俺の鼓膜を抜ける。うるさいのだが、つい笑みが零れてしまった。
 三時間が経過し、Mが施設に戻ってくる。明るい表情だった。数時間で見違えるものだ。民家で恵んでもらった衣類を身に着けているので、全く装いも違っているのだが。
 館内のチャイムが鳴った。放送が始まり、次々と名前が呼ばれていく。
「被験者J、被験者M、被験者R──」
 ……呼ばれた。俺の顔中に笑みが広がる。
「以上十七名の担当の方、被験者に素晴らしい迷惑をかけました。一日目の監視員プログラムは合格です」
 天井に向かって、拳を突き上げた。五度目でようやく突破できた。人に命令をしたり頼みごとをしたりするのがひどく苦手な俺は、この最終試験を合格できるか毎日不安だった。でも、もう大丈夫。一日目を突破したやつは同じ要領で最後までやっていけるらしいから。
 被験者Mにかけた多大な迷惑に胸を痛ませながらも、俺は手を差し伸べてくれた人間たちに、惜しみない感謝を抱いた。


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