私はいつも、ゆるぎないものを求めていた。 それがゆらぐものなら、捨て去りたかった。 ちょっとでもゆらぐ可能性のある友達。 ゆらぐ可能性しかない恋人。 ゆらいでばかりの仕事。 ゆらいでしまうものは、全部、ストレスになっていく。 いくら一瞬がよくても、いずれまた辛くなる。 それなら切り捨てればよいはずなのだが、悲しいことに、私は弱くて、ゆらぐものを簡単に捨てられなかった。 『それでさ、上司がまた俺にきつく当たってくるんだよ。たいした仕事してないクセにさぁ』 彼との通話時間は一時間経っている。ずっと彼が一方的に愚痴を言うだけ。たまに自分の優秀さを自慢をする。 そろそろ切りたいのだが、以前私から切ろうとしたら、彼はすごく怒った。あれ以来怖くて、最後まで傾聴するしかなくなった。 しかしそれで、彼は私に感謝を述べてくれる。私が耐えていれば、ゆらがない。でもこれはゆるぎないものではない。 「そんな彼氏さっさと捨てな。時間の無駄だよ。たいして稼いでもいないんでしょ。あんたはまだ同棲を経験したことないから、わからないと思うけど、そいつと一緒に住んだら、モラハラっぽいとこがどんどん目立つようになってくるよ。それでもあんたは優しいから抜けだせなくて、絶対辛くなるはず」 彼のことを友達にしゃべると、説教された。 彼には、いいところもある。交際が四年続いて、恋愛感情はだいぶ薄くなってきているけれど、でも嫌いになっていなかった。ただ「ゆるぎないもの」ではないだけ。 もし私が彼のフォローを口にすると、友達は失望するだろう。以前そうだったから。 その通りかもしれないね、と私は言った。 いつからだろう。私が年齢を重ねていって、後輩が入ってきて。 後輩がどんどん仕事を覚えていって、周りの社員は後輩ばかりに頼るようになっていって。 会社で私の仕事は少なくなっていった。 いつも後輩が話題の中心にいて、誰も私に話しかけてくれなくなっていって、私から声をかけないと、その日は誰とも会話せずに終わることもあった。 会社に居場所がない。 辞めたい。私が辞めても、誰も困らないだろう。でも辞めたら……厳しいご時世、次を見つけられると思えない。ただでさえ薄給でお金は貯まっていないのに。あっという間に貯金が減っていって、食べるものに困っていって、家賃も払えなくなったら。 辞めたい。でも辞められない。ゆらいでいる。 いくらゆらいでも、私は、なにも変えられなかった。変えてしまうことが怖かった。 息苦しい毎日。それをずっと耐える自分。限界はいつくるのだろう。限界がきたら、私はどうなるだろう。 私にはなんの夢もなく、なんの才能もない。 明日突然死んだとしても、悔いはなかった。でも身体は健康で、死ぬ気配は微塵もなくて、先は長い。 『あたしって、元々優柔不断だったんです。でも腰に蝶の刺青を入れてから、気持ちが変わったっていうか、引き締まったっていうか。それからですね、アーティストとして成功したのは』 私の尊敬するアーティストが、ネットの記事で蝶の刺青について語っていた。 これだ、と思った。 ピアスも、髪を染めることにも興味を持てなかったけれど、とにかく刺青を入れたくなった。 鉄は熱いうちに打て。強い気持ちがあるうちにやってしまおうと、私はすぐタトゥーショップを探して、予約を入れた。 私の腰に舞う青い蝶。 美しくて、一日に何度も鏡で確認していた。 これで五万なら安い。 『みてみて、刺青入れたよ』 画像を彼氏に送ると、即電話がかかってきた。 「お前バカじゃない? 俺になんの相談もなしになにやってんだよ! ただの凡人がタトゥーなんて入れてもメリットないんだぞ! どうせなんかのクソ雑誌に影響されたんだろ、頭悪すぎる」 別れよう。私は静かに言った。彼氏は喚いている。 「あなたといて不安な気持ちになることが、もう耐えられない。さようなら」 通話を切った。鉄は熱いうちに打て。ラインブロック、削除。着信拒否。 一つを変えると他のすべてを変えることは容易だった。 「しつこい彼氏に見つからないような、遠くへ引っ越すことにしたの。もう会うことはできないと思う。いままで友達でいてくれて、ありがとう」 友達と離れた。 「長い間、お世話になりました」 会社を辞めようとする私を、誰も引き止めなかった。 私は人が住まない田舎の古民家に移った。 スーパーまで自転車で一時間。最寄りの駅までは一時間強。コンビニはない。それでも全然、不便とは思わなかった。家賃がたったの月二万なので、むしろ好条件だった。 毎日お昼過ぎに起きても大丈夫。 誰からも連絡がこない。もうスマホは鳴らない。 ストレスが消えた。ゆるぎない平穏を手に入れた。 穏やかな生活は三年が限界だった。生活費の底が見えた。 実家に帰る選択肢は当然考慮した。でも、嫌だ。実家に戻れば、両親は働かない私をうるさく叱るだろう。 毎日を、ただ平穏に生きられる、このゆるぎなさを手放したくない。 私は生活費を切り詰めて、耐えた。耐えても、時の経過は残酷に私からお金を削っていく。 また社会に出なければいけない。長年の空白期間と私の年齢を考えると、もう正社員になることは絶望的だろう。 不安で眠れなくなった。 どうすればいいのか必死で考えた。考えたところで、答えは「仕事を探す」しかない。 どうしようもないことがわかると、無能な自分を呪った。生きづらい自分を呪った。快活に生きられる社会人たちのように、器用になれない自分を呪った。 不眠が続いて、私はひたすら叫ぶようになった。 周りに民家はないので、気にしなくてもいいのだが、それでも、万が一誰かに聞かれたら面倒なので、枕に叫んだ。 わあわあ。ぎゃあぎゃあ。適当に声をあげたり。 「みんな死ね、死ね死ね死ね」とにかく死を願う言葉を叫んだり。 「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」駄々っ子のようにどんどん音をたてて叫んだり。 買い出しをして、貯金が残り二万円を切ったその日は、叫び疲れて、ずっと、泣いていた。 泣きながら、救いを求めた。 「神様、助けて……神様、助けて……」 願っても、神は私を助けにこなかった。 * 「お会計2760円です」 おじいさんが財布をごそごそと探る。 「いくらだっけな?」 「二千、七百、六十円です!」 私は大声を出しつつ指を使って、おじいさんに値段を示した。おじいさんは財布をごそごそと探る。 千円札が、二枚。 それから、小銭をジャラジャラと台にぶちまけた。 「あるか?」 私は硬貨を選別していく。 「ちょっとぉ、店員さん!」 店の奥から、おばあさんのしゃがれた声。 「はぁい、少々お待ちください!」 急いで760円を取って、残りをおじいさんに返した。レジを操作して、レシートを渡す。 「ありがとね」 と、おじいさんは言った。ありがとうございました、と私も言ってから、急いで店の奥へ走った。 おばあさんが棚を見上げている。 「どうされました?」 「あれ、欲しいんよ」 四角い小さな箱を指す。重曹だ。 このスーパー、狭いクセに商品の数は豊富だった。その代わり棚が高すぎて、一番上の商品が取りにくい。160センチ以上ある人なら少し手を伸ばすだけでよいが、小柄な私は背伸びする必要があった。 私はつま先を上げて、腕を伸ばし、重曹をつかむ。 「キャ――」 冷えたなにかが肌に当たった おばあさんが、私の腰を触っている。 「綺麗な蝶々だねぇ」 「あっ……」 私は刺青の蝶々を確認して、おばあさんを見て、あはは、と愛想笑いした。 自転車で片道一時間かかっていたスーパー。当時は日持ちする食材を大量に買い込んで、それから一か月ほど家に引きこもる生活だった。 バイトで通うようになって一年。いまでは片道48分で行ける。 本気を出して、最高記録は40分13秒。何度か挑戦しているけれど、40分は切れない。 「やりますか」 今日は買い物をしていないし、ちょっとテンションが上がっていた。 スーパーの駐車場と道路の境目がスタート地点。スマホのストップウォッチを起ち上げる。 「よーい――」 スタートをタップ。 しょっぱなから立ち漕ぎで加速した。 すぐにひと気がなくなる。車も走らない、さびれた道路。 夕闇の中、私は田園風景を突っ走る。 息が荒立って、サドルに腰を下ろしたくなる。 「わああああああああああああ!」 叫んで気合いを入れた。誰にも聞かれないから、思う存分、声を張り上げた。 苦しくて、休みたくなる――ちょっとでも手を抜くと40分を切れない。 坂道は特に辛い。以前は坂で自転車を漕ぐことも無理だった。いまでは立ち漕ぎで上れるけれど、さすがにここまで全力疾走だったので、足の震えを感じた。 坂を上ると、もうあとちょっと。8分くらい。 「ウォラァァァァァァ!」 また気合いを入れた。鼻水が口に入る。拭っている暇はない。ただひたすら、全開でペダルを回す――。 ぽつんと一軒家。私の愛する家が見えた。ゴールすれば、いくらでも休める。だから私は、なにもかもの力を出し尽くすつもりで、漕ぎ切った。 家の敷地に入る――スマホを確認。 39分49秒。 ガタン、と自転車がゆれた。瓦礫を踏んだ。 体勢が崩れ、立て直す余力もなかったため、自転車ごとぶっ倒れた。 「いっ、たぁ、はぁ、はぁ、ぐっ……」 激しい息切れ。心臓が弾けそうなほど、脈打っている。視界がぼやけていた。 落ち着け、大丈夫。こんなめちゃくちゃ苦しいことをしたのは、これで五回目だ。問題ない。 少しずつ、息が整っていく。澄んだ空気の味を感じられた。ひどく心地好い。 視界が戻り、夜空が隅々まではっきりと見える。都会では絶対に見られなかった、燦然と瞬く鮮やかな星空。 私は、両手を組んだ。星に願う。 「神様、どうか、このゆるぎない平穏が、長く、長く、続きますように」 |
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