1 序章 つまらない。退屈すぎて拷問に近いレベルだ。 だいたい、数学が将来なんの役に立つっていうんだ。あー、おもしろくねえ。学校の授業ってのはどうしてこうも愉しくないんだ。机に顔を伏せて寝ようかな。 「こら、 目ざとい教師だ。たった今、顔を伏せたばかりなのに。 無視すると、足音が俺の席に向かってきやがった。 「大野!」 耳元で叫ばれて、俺は短い悲鳴をあげた。鼓膜が痛い。生徒たちが笑いやがる。 「寝たふりなんてしないで、ちゃんと授業を聞いて」 はーい、と形だけの返事をした。これで満足だろ? 「まったく、大野は相変わらずなんだから」教師は戻っていく。 「おい、ダイ」 真後ろの席にいる小野が小声で話しかけてきた。 「そんなことしてるとまたテストで赤点になるぞ。真面目にやれよ」 小野とは保育園の頃から今の便樹高校までずっと一緒だった。頼んでもいないのに、いつも朝は俺を迎えにくる。時には頼んでもいないのに宿題を手伝ってくれる。頼んでもいないのに、勉強を教えてくる。高校だって、小野の成績ならもっと良い所に進学できただろうに、俺と一緒の底辺高校に入学してきた。 「ショウはいいよなあ。頭良いし、うらやましい」 「またそれか。いつも言ってるだろ、おれはちゃんと勉強してるからできるだけなんだよ。ダイはなんもしてないからできないんだよ」 「こら、大野と小野!」 教師がきつい声音で言った。教室が静かなので小声で話してもあまり意味はないようだ。小野が謝って、顔を引っ込めた。……おせっかいめ、お前が謝ることないんだよ。 仕方がない、たまには真面目に授業受けるか。 ノートを出し、黒板を見て適当に開いていた教科書を正しいページまで開いた。目に入る文字と数字の羅列。ああ、わけわかんね。 それでも、なんとなく教科書を見たり、黒板を見つめたりしながら教師の言葉に耳を傾け続けた。 しかしそれもわずか十分で終了。やる気しねえ。 右腕を頬杖にし、窓の外に目をやる。空は、蒼い光が果てまで広がっている。良い天気だった。その姿勢のままで教室に目をやる。みんな、真面目に授業を──いや数人、俺みたいな奴がいる。黒板ではない方向をぼうっと見ているやつとか、消しゴムで練り消しを作っているやつもいる。 ふいに、予感がした。徐々に尻が圧迫されていく── 「うっ!」 「どうしたダイ?」 おせっかいがすかさず声をかけてきやがった。バッキャロウ、注目の的になるじゃねぇか。ああ、不味い、これはやばいぞ……間違いなく、奴だ。 時に人を苦しめ、時に人を快楽に導いてくれる。大の方の 壁掛け時計の針は十一時二十分をさしていた。三時間目が終わるのは三十五分……残り十五分だと? 無理だ、耐えられない。だって、今にも奴らはこの遥かなる大地へ飛びだしたいと、俺の門で雄たけびをあげているのに。 「なあどうしたんだってダイ」 うるさい黙れ、バレたら恥ずすぎだろ。……いや待てよ、冷静になれ。 「急に、気分悪くなってさあ」 「なんだって、大丈夫か?」 イイゾ。 「こらっ、そこ、また勝手に喋って」 かかった! そして次に小野が── 「先生、ダイが調子悪いって」 「本当? 大野君大丈夫?」 「いや、駄目かもしれないっす。保健室に行っていいですか?」 「ええ、早く行きなさい」 チェックメイト。 「先生、おれも付き添います!」 いや、お前は来なくていいんだよ。「ショウ、俺は一人で大丈夫だ」 素早く立ち上がり、逃げるように教室を出ていった。早歩きで他のクラスの横を通過していき、トイレに入った。 「ふう。たしか、鍵が壊れてないのは奥から二番目だっけな」 個室に入り、つまみを回すと鍵が掛かった。ベルトを緩め、チャックを下ろし、ズボンの上からトランクスを掴み、一気に脱ぐとズボンとトランクスが一緒に下がる。サッと腰を落とし、奴らを解放する準備が整った。 「さあ、時は来た。俺の門前に群がる魔物たち、いでよ!」 堅く閉ざしていた門を開くと、奴らは勢いよく飛びだしていった。 ……ふぅ、スッキリしたぜ。 いつになく長めの排出時間を経て、たくさん出たのがわかった。俺は門を丁寧に拭き、立ち上がってズボンを穿き、チラっとブツを確認する。 「なっ!」 眼前に広がっていたのは、茶色の海原。 有り得ない量の 「これ、流れるんか?」 足でレバーを踏む。轟音と共に清らかな真水が流れる。 「やばい、全然流れん」 だが、少しずつ巨大なそれは水圧で分解されていき、流れはじめていた。 クソッ、はやくしねぇと授業が終わってここを溜まり場にしてるやつらがくる── 「きゃああああああ!」 必死こいて流していると、女子の叫び声がトイレの中にまで響いてきた。 なんだ? 「小野君!」 教師のバカにデカイ声も聞こえた。 ショウ? あいつに何かあったのか? めちゃくちゃ気になるが、未だ俺のブツは流れず。あー、クソッ。 俺はトイレを飛びだした。ダチに何かあったってのに、クソのことなんて気にしてられっかよ! 教室に入ると、ショウの席の周りに生徒たちが集まっていた。近づいて、覗く。その光景を目にして、俺は息を呑んだ。 ……血だ。おびただしい量の血で、小野の机は赤色に染まっている。 「ショウ!」 教師がタオルをショウの左腕に縛り付けていた。ショウの右手にはカッターナイフ。 まさか、自分で手首切ったのか? 「おいショウ、お前自分でやったのか!」 反応するようにショウは俺を見る。魂の抜けたような、虚ろな目をしていた。もう一度呼びかけると、なぜかショウは薄笑いを浮かべる。 「先生、救急車を呼びました!」携帯を握りしめる女子が言った。 「ショウ、がんばれ、後少ししたら救急車来るからな!」 しかし、既にショウは瞼を閉じていた。 およそ五分後に救急が駆けつけた。だが、 「ショウ、どうしてなんだ……」 必死の処置も虚しく、小野の奴は息を引き取った。 2 疑惑 小野の葬式が終わって、それからの俺は学校に行かず、引き籠もった。「どうしてショウは自殺したのか」「アイツの悩みに気づいてやれなかったのか」およそ答えの出ない疑問に悩み続けた。 インターホンが鳴った。担任の コンコン。 俺の部屋をノックする音。……母さんが勝手にあげたのか。 「運駈、あたし。気味子よ」 その声は、保育園以前から付き合いのある幼馴染の 無言で鍵を開ける。部屋の扉がそっと開けられた。気味子の匂い──何の香りかわからないが、鼻につかない柔らかな匂いが久しく鼻腔に届く。 「入ってきてよかったかな? おばさんがどうぞって言ってくれたから……」 懐かしい顔が扉から覗いた。面長で、昔から両サイドが髪で覆われている。 「入っていいから開けたんだ」 「それじゃあ、お邪魔します」 おそるおそる入ってきて、気味子は静かに扉を閉めた。 「適当に座れよ。床でも布団の上でも、そこの椅子でも」 促すと、気味子は床に、足先を外側に折り曲げた女性らしいかっこうで座った。 「で、なにしにきたんだ」つい口調が冷たくなった。 「メール見てくれた? 何度か電話もしたんだけど」 小野が死んで以来、俺は携帯の電源を落としていた。 「いや、見てない」 「おばさんから聞いたよ? もう一週間も学校に行ってないんだってね。このままだと留年しちゃうよ?」 「なにもする気が起きないんだ」 朝には必ず“おせっかい”が来て、一緒に学校へ行っていた。毎日アイツと一緒だった。そのときはウザイと思っていたけれど、いなくなると小野が重要な役割を果たしてくれていたことをようやく、思い知った。 「尿くん、天国でアンタのこと見てるよ。きっと怒ってる」 おせっかいを極めているから、有りうると思えた。いっそ俺に憑依して学校に連れていってほしい。 「……気味子、俺のことは放っておいてくれ。お前はショウみたいにおせっかい言うためにわざわざ来たのかよ」 「なによ、あたしはアンタのこと心配だったんだよ。尿くんといつも一緒にいてさ、仲の良い兄弟みたいだって思ってた。そんな人が突然死んじゃって、葬式の時はあんた、ずっと泣いてた。それで連絡してもなにも返してくれないとなったら、あんたも自殺したんじゃないかって、不安だったんだよ?」 「なんでお前がそこまで思うんだよ」 気味子は何も返答せず、しばらく無言になった。 ふいに気味子は立ち上がった。窓の前に移動して、ずっと閉ざしていたカーテンを開けた。防がれていた陽射しが部屋中に飛び込む。光が網膜を刺すようで、微かに痛みを感じ、半目閉じた。気味子は陽光に背を向け、その姿がシルエットになる。 「あたし、アンタのことがずっと好きだった」 「冗談──」 「冗談じゃない」と、遮られた。「今日はこれを言うために来た」 どうやら、本気らしい。……うッ! 「そんな難しい顔しなくてもいいじゃん。アンタ、なんとなく気づいてなかったの? たまにアプローチかけてたのに」 難しい顔した理由は違うんだ。急に出そうになってきたんだよ。 “あれ”が、門前でおしくらまんじゅうを始めやがったんだ。 「もしかしてそうかもとは、思ってた、けど──」 「けど?」 けれど、出そうだ。いや── 「気づかないフリをしていたんだ」 「どういうこと?」 気味子のことは、異性として好きというわけではない。好意に気づいていると知られれば、関係が変わってしまいそうで怖かった。うゥ! 「さっきから変な顔して、真面目に話してんの?」 「いや、かなり真面目だよ、だけど──」 もう、かなりやばい。門の向こう側にひょっこり茶色の顔を覗かせているようだった。 「わりぃ、話は後だ、ちょっとトイレ行くから、大人しく待ってろ」 急いで部屋を飛びだした。門に気を集中し、引き締めながらできる限り急いだ。 トイレに入り、便座を上げ、ズボン越しにトランクスを下ろす──その瞬間、締める力が弱まって、つい開門してしまった。 「やべぇ!」 まだ尻を便器に向けてはおらず、ブツが出始める。クイックターンでケツを向け、腰を下ろしにかかる。 ──ポチャン。 まだ、座ってはいない。けれども水没した音が聞こえた。水飛沫が、ケツについた。 「危なかった……」 腰を下ろし、奴らを解き放っていく。 生まれて初めての経験だった。まだケツをつけていない状態からの排便。上手に便器にホールインワンしたから良かったものの、外れたら大変なことになるところだった。もし外れた先が便座カバーとか、マットの上だったら……。 考えるだけで身震いが起きた。 「しかし……」 先ほどから次々と、奴らは外界に飛びだしていきやがる。長い戦いになりそうだ。 長めの排出を終え、チラっとケツを上げて中を覗く。 「なっ!」 眼前に見えるは鮮やかな土壌。良い作物が育つだろう。 便器の穴が見えない。完全に塞がっている。 「ですぎだろ……」 小野が死んだあの日と比べれば大したことはないが、それでも通常の五、六倍は出ていた。 ケツを拭き、ズボンを上げながら水を流してみる。グモモモ、という、トイレではまず聴けるものではない珍妙なサウンドが鳴った。一向に流れていかない。 けれども、執拗にレバーをまわしていると、ちょっとずつ吸い込まれていくのが見て取れた。時間をかけてなんとか全てを流し終え、ちゃんと手を洗ってトイレから飛びだす。急いで部屋に戻った。 しかし、そこにはもう、気味子の姿はない。 「帰ったのか……クソっ」 流している最中に返事を考えていた。アイツと付き合っていこうと決めたのに……いや、まだ近くにいるかもしれない。 窓を開けて外を見渡す。少し遠くに人影を発見した。 「気味子か?」 小さな人影を、じっと目で追う。足取りがどこか妙だった。ふらふらと、車道に向かって歩いていく。そのまま道路に出て、それは立ち止まった。 キキィィィィ! 人影がセダンタイプの車に撥ねられたあと、空に響いた衝撃音が俺の耳に届いた。 3 確信 死んだ。 ショウに続いて、気味子まで……。 「ほら運駈、線香あげてきなさい」 会場に目をやると、俺の前の人がお線香をあげていた。次は俺の番らしい。母さんに背を押され、イスから立ち上がって前へ出ていき、線香をあげた。そうしながら心で呟く。 ……なぁ気味子、なんでだ? あのときお前はふらっと車道に出ていったよな? 事故じゃない、お前は自殺したんだ。いったい、なんだってんだ? 俺があの時返事しなかったからか? クソっ、すぐに返事してたら未来は変わっていたのか? 「クっ──」涙が溢れる。 席に戻らず、会場を出た。 外に出れば、ひんやりとした十月の夜風が身体を包む。 一つの疑惑が浮かんでいた。小野が死んだあの時、俺はすごい量の 「そこにいたのか、運駈」 声の方を見遣ると、知った顔が会場から出てきていた。中学の同級生、 「なぁカイ、おかしいと思わないか?」 「おもうぜ。小野と気味子、同じ中学のやつが二人も死ねば当然だ。けれど、結局ただの偶然で片付けられるんじゃないか?」 そう言ってしまえばそれまでだ。しかし、俺にしかわからないもう一つの偶然。それを考えると、どうしても簡単には片付けられないんだよ。 「お前のハナシによると、気味子はふらっと車道に出ていったんだよな? なら、自殺の可能性は大。小野のやつも手首を切って死んだ。おれは、二人とはあんま付き合いがないからわかんねぇけど、運駈にしたら自殺した原因はさっぱりなんだよな?」 「ああ」 「自殺するやつの多くはさ、誰にも話さず表に出さず、気づいて欲しいけど気づいてくれなくて、それを溜めて溜めて耐え切れなくなって死ぬんだと思うんだ。小野も気味子も、そういった感じだったんだと思う」 カイの言うとおりかもしれない。そして俺はあの大量の 「ありがとうカイ。お前の言葉のおかげで少しスッキリできた──ほぅ!」 「は? なんだよいきなり、ほぅ、って」 いや、思わずでちまったんだ。そして出そうなんだよ。こっちもスッキリさせねぇと……。 「なぁカイ、お前は自殺なんて考えてないよな?」 「馬鹿言ってんじゃねぇよ、おれには夢があるんだぜ? お前にも昔よく言ってただろ?」 高校を出たら音大に入ってミュージシャンになる。それがカイの夢だ。よく知ってる。コイツはとんでもなく歌がうまいし、ギターだってバリバリ弾ける。カイなら夢を叶えられると、何度も俺は思っていた。 「カイならなれる」 何度もこの台詞を言ってきた。決してお世辞なんかじゃなく、本当にそう思うから素直に言った。漏れそうだ。 「テレビをつければおれの歌が流れる。店に入れば有線がおれの曲をバンバン流す。そして曲は飛ぶように売れる。最高だぜ」 こんなこと言ってるやつが自殺するはずがない。ダメだ、今にも門を突破しそうだ。 「俺ちょっとトイレ行って来るわ」 「ああ。大か? 小か?」 「どっちでもいいだろ──」 急いで会場備え付けのトイレに駆け込んだ。できればゆったりできる洋式がいいのだが。 個室を開くと、中でどっしりと洋式便器が待ち構えていた。 「お、ラッキー」 鍵を閉め、ズボン越しにトランクスを下げ、素早く便座に腰掛ける。 「あぁ……」 便座の冷たさがケツにしみる。 「よし、解放だ!」 門を開き、奴らを解き放とうとした──が、 「でねぇ……」 位の一番に出たい出たいとやっていたもんだから、詰まってやがるのだろう。 「世話が焼けるぜ」 門に気を集中させ、「ふん!」とかけ声をあげて同時に踏ん張る。ブリリリリ! と音をたて、奴らは水遊びを始めた。飛沫が冷てぇ。 ポチャポチャポチャ──と、それはなかなか止みそうになかった。 どうやら今夜も長くなりそうだ。 長い排出を終えれば、奴らの温かさが直に伝わる。 「またえらい量だしたんじゃないだろうか……」 ケツをずらし、下を覗く。 「うおぁっ!」 さすがに驚愕した。なんせ“それ”はあとちょっとで俺のケツに届きそうなくらい積もっていたのだから。 「うそだろ……」 無理だ、こんなの流せると思えない。つーか── 「俺の身体どうしちまったんだ……」 いつもこうというわけじゃない。小野が死んだ後からはいつも普通の量だった。そして気味子がきたあの日、大量の 「嫌な予感がする」 俺は急いで門を拭きあげ、ズボンを閉めながら一応、流す。 「全然流れん……」 もう放っておこう。こんなの無理だ。ここのスタッフに任せよう。 外に出て、カイといた場所まで戻ってくると、そこにカイの姿はない。 「どこに行った? 会場に戻ったのか?」 辺りを見回すと、大きな木の下の、闇の中に薄っすらと浮かび上がる人影を見つけた。 「カイか?」 呼びかけたが返事はない。その人影は不自然な位置に見えた。 「なあアンタ、そこで何してんだ?」 返事をくれる気配はなかった。 おそるおそる影に近づく。段々、“それ”がハッキリ見えてきた。 「マジかよ……」 卿茂甲斐蝶はそこで首を吊っていた。 4 仲間 夢に溢れていたカイが死んだ。それは疑惑を一気に確信へと変えた。 ──俺が大量のウンコをすると、身近な人間が死ぬ。 そんな馬鹿な話、と思うけれど、それは現実で起こっている。もう外へは出ない。俺は誰とも関りたくない。関ってしまえば、そいつが死ぬ。 数日の間、親の顔さえ見ないようにしていた。飯は親が家を出ていった後に食べ、おれが飯を食べていないことを知ると、母さんは部屋の前に持ってきてくれた。きっと母さんは「親しい友達が続けて三人も死んでしまったから、ショックで引き籠もってしまった」と思ってくれていることだろう。それでいい。 ウンコを我慢することなんてできないし、いつかは出してしまう。いっそ、俺が死ねば……。 「そうだ、俺が死ねばいいんだ……そうすれば二度と俺が誰かを死なすことはない」 こんな惨めな生活を送り続けるより、そのほうがマシだ。 ふと家の敷地の砂利が鳴るのが聞こえた。車が来たようだ。 「父さんと母さんは家にいるはず……玄関が開いた音は聞こえてない。来客か?」 耳を澄ませると、賑やかな声が聞こえてきた。インターホンが鳴り、「ごめんください!」と大きな声が聞こえた。 気になって部屋の扉を少しだけ開き、音に意識を向ける。 「雲地先生、それにお友達も……」 母さんがそう言った。担任が来たのか? 友達? なおも聞こえる数人の声。察するに五、六人はいそうだ。 「学校のみんなが運駈君に会いたいと言っていたので連れてきたのですが」 「先生、先日来た時だって言ったじゃないですか。運駈は誰とも会いたくないと言っておりますので」 拒んでくれ母さん、追い返してくれよ……。 「ぼくらも駄目なんですか? ぼく、運駈とは一番仲よかったんですけど」 今の声は、 「ちげーよ運賀、一番仲良かったのは俺だよ」 今のは 「やっ、ちゃうやろ、一番仲よかったんは、小野やろ」 「一番とか二番とかなんてないだろ。みんな仲間だ。優劣なんてねぇ」 「とにかく、上がらしてください。部屋の前でもいいんです。駄目ですか?」 下痢雫、 「運駈君は、本当にいい息子さんですね。こんなに多くのお友達がいて、三人の死に耐え切れず引き籠もってしまうほど心の優しい子だ。そんな彼をこのまま退学になんて、私はそんなの嫌です」 雲地……。みんな駄目なんだよ、来ないでくれよ──俺、もう誰も死なせたくない……。 「じゃあ、部屋の前までなら……あとは運駈次第ですので」 クソっ、上がってくるのか! 音が鳴らないよう、ゆっくり戸を閉め、鍵をかけた。ぞろぞろと部屋に近づいてくる音が聞こえる。部屋の前で足音が止まった。 「運駈、先生だぞ。開けてくれないか。みんなも来てるんだ。聞こえてるだろ?」 先生……。 「運駈、ぼくだよ。運賀だよ。みんな心配してるんだ。このままじゃ留年だよ? 早く戻ってくるべきだよ。また、君とゲームの話をしたいな」 出相……。 「運駈、洩総や。お前の気持ち、よくわかるよ。引き籠もるまではいかんけど、おれかてすげー悲しかったし辛かった。小野のことも気味子さんのことも、特におれは卿茂と仲はすっげー良かったし、辛いよ。でも、だからって引き籠もってしまうことないじゃないか。なあ頼むよ、学校に出てきてくれよ」 猛……。 「大野、出茶太だ。ライバルのお前が来なくなってから部活、張り合いがなくなっちまったよ。俺のためにも来てくれよな」 亜亞、ウチのテニス部は弱小だろ。マジメにやってたのも俺とお前だけじゃないか……。 「運駈、馬路だ。またお前と一緒に教室のみんなを笑わせたいぜ。みんなも待ってるんだよ、俺たちの笑いをさ」 馬路、お前とは漫才コンビを気取ってたな。そうか……みんな期待して待ってるのか……。 「私だ。下痢雫だ。また見せてくれよ、君と馬路の笑いを。将来は私が君たちのマネージャーになろう」 けっ、よく言うぜ下痢雫。お前だけは俺らのギャグに笑ってなかっただろ? 「わかっただろ運駈。みんなお前を待ってるんだ。だから出てこい。先生もお前を待ってる。なっ?」 みんな、いいやつらだよ。だからこそ俺はここを出ない。誰も死なせない。 「帰ってくれ」 「運駈、やっと喋ったな。それにしても第一声が『帰ってくれ』だなんてないんじゃないのか」 先生、悪いが俺はもう喋らない。そうすればいつかは── 「ほぅ!」 「どうした運駈!」 来た。ここぞというタイミングで奴らは脱獄計画を計っていたのだ。クソっ、このままじゃ── 「みんな帰れ! 頼む、早くこの場を離れろ!」 「なんや、どうしたんや運駈!」 うっ──いつも以上に圧迫してきやがる……けれど、俺は全力でお前らを止めるぜ。門からは 布団に潜りこみ、耳を塞ぎケツを締め、だんまりを決め込んだ。みんなの声が雑音となって聞こえる。ドンドン! と、強く扉が叩かれる。まさか、壊す気か? その間、門前には続々と茶色の悪魔が集結していた。 「みんな帰れ、帰ってくれ!」 俺さえ我慢すれば──みんながここから立ち去ってくれれば── 「帰れええええええ!」 一心不乱に叫んだ。自分の声で周りの音は聞こえなかった。 と、思っていたが、叫ぶのを止めるとなんの音も聞こえなくなっていた。 諦めて帰ったのか? ……あぁ! 「そんな──」 我慢していたと思っていた。 「うそだ……」 それはほんの一部に過ぎない。 「ケツが、温かい……水気が……」 今は確実に、わかった。 水のような 「漏らしちまった……」 バタン、と車のドアが閉まる音が聞こえた。未だ出続けている水気の多い 「待ってくれよ……行くなよ……行くなあああああ!」 いくら叫んでも車は止まらず、ズボンの裾からは茶色が零れ落ちていく。 「うっぐ……」 溢れていた、涙も。 |
後編 » |