5 自殺 教師一名と生徒五名を乗せたワンボックスカーが崖から転落したというニュースをみた。生存者はなし。全員死亡。目撃者の証言によると、その車は直線の道から突然崖側のガードレールに突っ込んだらしく、調べによると事故という線も低く、教師と生徒の身辺も洗ったらしいが自殺する動機の欠片もみつけられないという、不可解な事件となってしまった。落ちた先は車道で、その際乗用車に激突。乗用車に乗っていた三名は重症。 「俺は生きていてはいけない」 今、俺はとある自殺の名所──地上七階建ての廃病院の屋上にいた。 「もっと早くこうすればよかったんだ」 卿茂が死んだ時にはもうハッキリしていた。あのとき俺がさっさと死んでいれば、みんな生きていた。 曇り空の昼下がり、唸りを上げて吹き付ける冷たい風。身を乗りだして端から下を覗けば、足が竦んでしまう。 ためらうんじゃない、俺は死ななければならないんだ。 自分を追いつめように、端の段差にあがった。 「よし、いいぞ……。これで身体をちょっとずらせばそれで終わりだ」 ガチャン── 屋上の扉が開く音がした。身がすくみ、反応するようにそちらを振り向いた。 誰だ? 人が出てくる。女だ。そいつは俺を見つけると、出ようとしたのをやめ、身体を引っ込めてドアから頭だけ出した。 「あ、あなた、そこでなにをしてるの!」 風に負けない声量で言われた。 「あんたこそ、何しにきたんだ」 「そ、そりゃあ──」 声が小さくなって先がよく聞こえない。 「風が強くて聞こえない」 そう声をあげて、俺は端から下りた。女は出てきて、こちらに近づいてくる。 表情が認識できるくらい距離が縮まったとき、「なんて?」と訊ねた。 「あ、えっと──そう、死ににきたの」 良くも悪くもない、ある程度整った面長な顔立ち。ミドルヘヤの黒髪が、風でなびいている。細身で、総合的に言えば容姿は綺麗なほうだろう。そんなやつがどうして自殺を? 歳は、俺と近いように思えた。 「アンタもしかして高二か?」 「え? ううん、私は高校一年」 一つ下か。 「なんで死のうと?」 「別にいいじゃない、なんでも」 それもそうだ。話しにくい理由なんだろうし、死にゆく俺に止める義理はない。 「あなたは? なんで? 死ににきたんでしょ?」 「ああ、そうだよ」 女は声を鼻に抜いて「ふーん」と言い、じろじろと俺を観察しながら、「どうして?」と訊いてきた。 「アンタが話さないのなら俺も言わない。だいたい、言っても信じられないような理由だから」 「そう……」 女は俯いた。 「先に行けよ、レディファーストだ」 「え?」女は少し迷う素振りをみせる。「じゃあ……」 移動して、端に立った。 いけるのか? 女は端で風を受け、俺は息を呑んだ。 「止めないの?」 「いや、死にたいんだろ。色んな重いこと背負って、それで追い詰められてここにたどり着いたんだろ? 救いの道が死ぬことしかないのなら、それを選べばいい」 女は言葉を失くす。しゃがみこみ、目標地点を覗いた。 「高い。怖い」 「そうだな。俺もさっきそこに立ったけど、怖かったよ」 ねえ、と女は下を覗きながら言う。 「私が話したらあなたも話してくれる?」 「構わないが、本当に信じがたいぞ? それでもいいのなら」 女は俺の方を向いて端に腰を掛け、足をぶらつかせた。 「昨日ね、お父さんとお母さんとお姉ちゃんが、死んだ」 三人一緒? 事故か? 「車で走っててね、上から大型の自動車が降ってきて、それに激突しちゃったんだって」 ピンポイントで思い当たることがあった。 「ありえないよね。私は留守番してて助かったけど。即死じゃなくて、息はあったらしいけど……三人とも搬送中に死んじゃったってさ」 なんてことを……。 「私には他に家族がいなくって、一人ぼっちになっちゃったの。これが自殺したい理由。はい、次はあなた」 真実を知ったとき、こいつはなんて思うだろう。 「きっと、これを話したらお前は俺を殺したくなるだろう」 「どういうこと?」 俺は包み隠さず全てを話した。 もちろん、お漏らししたことも。 「冗談にしてはできすぎた話」 「ああ。本当に起きたことだからな。どうだ? 俺に殺意が湧いてきただろ?」 俺を殺すがいい。 「ううん」女は首を振った。「湧かない。だって、あなたはどうしようもなかったわけだし」 「信じたのか?」 女は俺から視線を逸らし、考える。 視線が俺に戻ると、信じる、と言った。 「ねえ、まだあなたの名前聞いてなかった。私は、 「ナナカか。いい名前じゃないか。大野運駈だ」 「ウンクね。じゃあウンク、その力で私を殺して」 「は?」 「飛び降りるのは怖い……でもあなたのその力なら、楽に死ねそう」 そうだな……。俺もこの呪われた力で自分を殺せるのなら、そうしたい。だが── 「ダメだ。うまくいくかどうかわからない。仮に呪いの 「でもあなたの話を聞いた限りでは、仲の良い、目の前にいる人が死んでるよ? お願い、やってみてよ。せめてもの償いだと思って」 償いか……。 「わかった。ここ来るとき公園を見つけたんだ。ほら、あそこ」公園を指差す。「そこのトイレに入る」 「いま、出るの?」 「ああ」 さっきからすっげー我慢してた。 6 幇助 公園には誰もおらず、静かだった。敷地は結構広くて、遊具の数も豊富。それが誰もいない虚しさを際立たせていた。 「トイレに入る前に確認する。本当にいいんだな?」 「うん」 この力がこうやって役に立つなんてな。 「わかった。じゃあ行ってくる。ただ、その ナナカはこくりとうなずいた。俺はもう何も言わず、背を向け、トイレに入っていった。 個室に入ってみると、便器は和式。 「ちっ」 あの 「つべこべ言わずやるか」 もう我慢はできない。 いつもどおりズボン越しにトランクスを下ろし、ケツを下ろした。 「さあ、解放だ」 門を緩めると、急げ急げといわんばかりに奴らは飛びだす。 「いけそうだ」 次々と水面に飛びだす しばらくして排出が終わり、足の間から覗いてみる。 「微妙だな……」 通常に比べたら多いが、今までで一番少ない。並以上、特盛以下。例の 素早くケツを拭いて、ズボンを上げながらレバーを踏む。真水が勢いよく 「流れた……」 いとも簡単に吸い込まれていった。 個室を出て手を洗い、外へ出る。 「いない」 そこにナナカの姿は見えない。自転車はあるが。 「死ぬのに自転車が必要、ということはない。歩きでいったか……。くっ──」 強い後悔の念に襲われた。やめればよかった。我慢すればよかった。 「次は、俺の番だ」 もうここにいる意味はない。俺は廃病院に戻ろうと歩きだす。 「駄目だったみたいだね」 声が聞こえた。トイレの方から。その声の主は、女子側から出てきた。 「よかった……」 ナナカだった。呪いにはかからなかったようだ。 「よかった、ってどういう意味?」 「ちゃんと出すものは出したんだ。けど、量が少なかった。微妙な量だった。だから発動しなかったんだと思う」 「そう。で、なんで『よかった』って言ったの?」 それは……。 「ナナカに、好意があったからだ」 風が吹き抜け、トイレの香りがする。 「私は……別にあなたになんの感情も湧いてない」 「そうか」それでも構わない。 一緒にいれば、いつかはナナカを殺してしまうから。 「だけど私、あなたと一緒にいたい。そうすればいつか死ねるから」 「まだ死にたいと思うのか?」 「もちろんだよ。ウンクが協力してくれないなら、私は自力で死んでみせるけど」 ……どうせ死ぬのなら俺の手で死なせたい。もしかしたら、それを止めることだってできるかもしれない。一緒にいれば変えられるかもしれない。それで「死にたくない」ってことにできたら、俺がさっさと逝けばいいんだ。 「わかった。じゃあ一緒にいてくれ」 「うん」 「それで、今日はどうするんだ? 帰るか?」 聞くと、少し俯いて「んー」と悩みだした。そしてふと目線を俺に合わせる。 「家に来てよ。あなたがまたしたくなるの、そこで待とっか」 「いいのか? 今日会った男を──」 「そういうことをしたいの?」 「さっき、好意があるって言っただろ。家には誰もいないんだろ?」 「いないよ」 「俺は男だ。なにするかわからない」 「どうせ死ぬ女だから、とか思わないの?」 「そんなこと、思ってないよ」 「なら」 行こう、と、ナナカは自転車に向かいだす。 いいさ。ナナカを変えるチャンスだ。 7 家 ナナカの部屋は俺の部屋と似ていた。女性らしいとはいえない、スッキリとした飾り気のない部屋だった。 「今日はとことん一緒にいてもらうから」 部屋に入ってきたナナカは、イチゴのラベルの缶チューハイをテーブルに置いた。 「おい、高校生だろ俺たち」 「いいじゃん、どーせ死ぬし」 ナナカは缶を開ける。プシュ、と音が鳴った。俺の方に置かれた缶も開けてきた。 「さあ乾杯するよー」 既に酔っているようなテンションだ。 俺は缶を持ち、目線の高さに上げた。彼女も同じように缶を上げる。 「乾杯」 一緒に言い、飲みだした。 「うっ、私ちょっと酔ってきたかも」 お互い一缶を飲み干して、俺もほろ酔いになっていた。 「ウンクはお酒飲んだことあるの? 私ははじめてー」 「あるけど、遊びで飲んだだけだ。本気で一缶飲んだのはこれが初めて」 慣れないからか、途中で吐きそうになったが、それでも飲めるもんだな。 「ねえねえ」 ナナカが傍に寄ってくる。 「ウンク、……したことある?」 何を言ってるかは見当がついた。「なにを?」 「わかってるクセにぃ〜」と、肘で俺を突いてくる。「ウンクって、そこそこかっこいいし、経験あるでしょ?」 「いや、ないよ」 「へー! そぉなんだぁ〜。私もないない」顔の前で手を振った。「ねーえ、襲わないのぉ?」 「……しないよ」 「えー、さっきは好意がどうこうゆってたぁ〜」 こいつ、アルコールが入ると開放的になるのか? 「よし、ではウンク君。ベッドに移動しなさい」 「はっ?」 「初めて同士仲良くしよ〜。ほら、立って──」 ナナカは立ち上がり、俺の腕を引っ張る。そんなナナカの積極さに感化され、俺もその気になって、ベッドに移動した。 「うし。じゃあキスから。キスはしたことある?」 「ないよ」 「ええええええ! 私も」 なんなんだコイツのこのテンションは。 「お互いホントに初めてなんだねぇ。よし、じゃあ──」 ナナカは目を閉じ、唇を差しだしてきた。 こんなことしていいのか? いや、彼女がいいと言ってる……。 唇を近付けていき、 「おぅ!」 キスをする寸前で、来た。 「どうしたの?」 ナナカは目を開けた。 「いや、なんでもない」 続きをしようと唇を近づける。 「トイレ」と、肩を押されて拒まれた。「いきたいんじゃない?」 「ああ……そうだ」 けれどさっきしたばかりだ。それなのにまた……。 「行ってきてよ。続きはそのあと」 出したくない。「我慢する」 「ダメだよ、身体に良くない」ナナカはベッドから下りて、俺を引っ張る。「ほら行ってきて」 出せばもう会えなくなるかもしれない。 いや── 「わかった。行ってくる」 嘘をつけばいいんだ。 トイレに入ると便座を上げ、ズボンは脱がずに腰を下ろした。 我慢すればいい。そう思っていたが、強烈な勢いで奴らは門をこじ開けようとしていた。俺の考えは安易だった。我慢できると思えない。便座にケツをつけたらなおさらしたくなってきた。 けれど、頑張って締め続けるよう。そうすればきっと、いつか奴らは引っ込む。 何分経っただろうか。 長い間、耐え続けた。そして、 「止まった……」 悪魔に打ち勝った。便意は完全に引っ込んだ。 耐えている途中、俺が死のうかとよっぽど考えたが、死んだところで今のナナカじゃ同じ道を辿る。意味はない。だからこそ、耐えることができた。 もう少し一緒にいて、そしてこれから先もこれを我慢し続けて、彼女に「生きたい」と思わせたい。俺の分まで生きてほしい。そう願っていたからこそ、耐え抜くことができた。 トイレを出て、部屋に戻る。 「あれ?」 ナナカの姿はない。 ハッと息を呑み、外に飛びだす── ナナカの自転車がない。 「クソっ、俺は まさかあいつ、自力で── とにかく自転車に乗り、ナナカの家を後にした。 行き先は、俺がわかるのは廃病院だけだ。 8 呪い 廃病院の前に自転車が倒れていた。俺はスタンドを立てず自転車を乗り捨て、エントランスへ駆け込んだ。 屋上の扉を開けると、ふらふらと端に向かう彼女が視界に飛び込んだ。 「ナナカ!」 呼びかけても彼女は振り向かない。俺はナナカの腕を掴んだ。 「ナナカ、どうしたんだよ!」 腕をグッと引っ張っているが、更に強い力で俺が引っ張られる。まるで、彼女じゃないみたいだ。 「ナナカ!」 叫んでも、ナナカは全く反応を示さない。あまりの強い力に手を離してしまい、その瞬間彼女は駆けだす── 「待てよ!」 とっさに彼女を後ろから抱きとめた。髪の香りが鼻腔を抜ける。力一杯抱きしめているのだが、彼女の方が強すぎて、離れそうになる。自分を盾にするため、必死に押さえ込みながら、正面に回った。 「ナナカ──?」 ナナカの瞳孔が、開ききっている。 「なんでだよ、俺は出してないぞ! 我慢したんだ! 目を覚ませナナカ!」 肩を揺らしながら必死に呼びかけるが、目にナナカの意識が宿らない。 「クソっ、なんだってんだよ!」 ふいにナナカが、肩を持つ俺の手をグイグイと引き離しにかかってくる。必死に力を加えるが、強靭な力に圧倒され、腕を弾かれ── 「あっ」 突き飛ばされた。 ふと気がつき、すぐに立ち上がって周りを見渡す。 「ナナカ?」 どこにもいない。 なにがどうなったのか、すぐに悟った。終わったんだ。 俺は、頭を打って気絶していた。姿が見えないとしたら、彼女は間違いなく……。 見たくなかった。下はコンクリート。悲惨な状態になっているだろう。 助けれなかった。 俺は、おそるおそる端に近づいていき、僅かな期待を抱いて、下を覗く。 その姿が視界に入ったとき、俺は呻いた。頭部の周りに血が飛び散り、手足が不気味に曲がっている。それでもまだ生きているんじゃないかと、彼女を見つめていたが、動く気配はなかった。 「どうしてだよ、俺は我慢したぞ……」 ……そうか。わかった。 我慢しても、別にそれで止まるわけじゃないんだ。出しても出さなくても、「呪いの 「なんだよ……はっ、ははは──」 どうしてか、笑った。涙を流しながら。 「これで良かったのだろうか」 彼女の望みは叶った。でもそれは聞いた上でのものだ。本当の望みは違ったかもしれない。いや……。 「俺が、ナナカといたかったんだ。生き続けてほしかった」 だがどうすることもできなかった。 俺はゆっくりと段差を上る。ちょうどナナカの遺体が真下にみえる位置に立った。 今なら、飛べる。 「せめて、お前のすぐ後を追うよ」 雲間の蒼くなっている部分を見つめ、ゆっくりと深呼吸をした。そして、目を閉じた。瞼の裏に、生きてきた日々を思い返す。 俺は瞼を開いた。 「さようなら」 9 終章 トゥルルルルル! 電話の音に目を覚ます。 「うっ──」 頭が痛い。昨日は飲みすぎた。 ベッドから起き上がり、ふらふらと歩きながら電話に向かった。 「はいはい、今取りますよ……」 ディスプレイを確認。別の場所から転送されてきた電話だ。依頼か。 電話を取り、相手の声を聞く。 「あ、茶色の悪魔」 いいだろう。 「それで、ご要件は?」 「その前に、本当に殺ってくれるんだろうな? 私には何の疑いもかからないんだろうな? こっちはもう金を振り込んであるんだ」 毎度同じようなことを聞かれるとうんざりする。 「ええ、ターゲットに近づくことができれば。アナタにも一切ご迷惑をお掛けしませんから」 「そうか……。もう一つ聞きたい。どうやって殺るんだ? 必ず自殺か事故となるらしいが」 サイトに書いてあっただろう。読んでないのか、こいつは。 「それは教えられません。それと、サイトに書いてありますが、自殺か事故のどちらになるかはわかりませんので」 「ああ、構わない」 「では、お相手の詳細を」 依頼主は大企業の専務だった。同じ会社の副社長が今回のターゲットだ。 殺したい理由、恨みつらみ、その副社長のやってきた罪の数々を嫌というほど聞かされ、「金は五千万でどうだ?」と持ちかけられた。「それじゃあ安すぎる」と言ったら、「じゃあ七千万だ。これが限界なんだ」と言ってきたので、それで受けてやることにした。ちと安いが、相手の詳細も分かり、接触しやすい場所なども教えてくれたので、それを金の代わりと考えることにした。 「頼んだぞ、Brown satan」 電話の切り際にそう言われた。ブラウンサタン。茶色の悪魔。それが俺の通り名になっているようだ。「殺し屋」と呼ばれるよりはいいが。 殺し屋。それが今の俺の職。いや、「職」なんていえない。悪魔の仕事だ。 表向きは小説のサイト。そのサイトに分かりにくくリンクが貼ってある。そこに入ると、真っ黒なバックに白文字で「あなたに殺したい相手がいますか?」と一言。そこに俺が書いた 相手が金を振り込むとメールなどでパスを教える。相手がそのパスでサイトに入ると、そこには詳細な内容が記されている。「以上の内容を守れるのなら、更に五十万で連絡先を教えます」と書いてあり、相手の振込みを確認すると海外の電話番号を伝える。 相手が電話を掛けてこれば何回もの転送を繰り返し、ここに掛かってくる。詳細の中には合言葉について書かれており、それを言わないやつは強制的に電話を切る。 報酬は相手によって変えるので、安くても五千万。今までの最高は七億。前金に報酬の半分を払うことが条件。それで俺はようやく動きだす。 中には「自分を殺してほしい」なんていう自殺志願者がいる。そういうやつは相手によっては受けて、相手によっては断る。報酬は相手まかせだ。死にたいのに死ねない苦しみを背負っているやつから俺はあまり金をとらない。遺族がいるのならそいつに渡るようにしろと言っている。 殺し方は至ってシンプル。ターゲットに近づき、一言交わし、握手をする。これだけでいいということを経験で知った。あとは家に帰って、そいつのことをずっと心に想っていればいい。直に、茶色の悪魔が門に押し寄せる。 極、簡単だ。 「それにしても──」 部屋が散らかっている。今まで片付けなかったウィスキーボトル、ビール瓶、イチゴのチューハイが嫌でも目についた。仕事が終わったら片付けよう。 机にある煙草とライターを手にし、窓際に移動する。窓を開ければ、少し冷ややかな風が部屋に吹きこむ。寒くはない。程よく心地のいい冷気だ。 煙草を咥え、火をつける。吹かしながら、力に目覚めたのがちょうどこんな季節だったと思いだす。 死ねなかったあの日。ずるずると、生きてきた。 俺はもう、昔の俺じゃない。俺は変わった。人を殺すことに何の感慨も湧かない。 いや、一つ変わってないことがある。 俺はあの日以来、イチゴのチューハイをよく口にするようになった。いつも酒を飲んだ後は、最後にイチゴのチューハイが無性に飲みたくなる。 と、チューハイのことを考えていたら、飲みたくなってきた。 「飲むか……」 煙草を灰皿に置き、冷蔵庫からイチゴのチューハイを出して持ってきた。ラベルはあの時と違うが、会社は同じだ。少しくらい味が変わっているのかもしれないが、俺の舌ではそれをとらえられはしない。いつだって、あの時と同じ味がする。 プシュ! と缶を開け、匂いを嗅ぎながら泡が弾ける音を聴いた。これを飲んでいるときだけ、昔の自分に戻ったような気になれる。だから最後に飲みたくなるのかもしれない。 缶を窓に向け、目線の高さまで持っていき──ふと、雲間の蒼が目に映り、そこに視線をやりながら、天に向かって缶を突きだした。 「乾杯」 今日は、あの日のような天気だ。 |
(了) |