魔法シンドローム

第一話.先天性魯鈍魔法症候群(page.B)



 家には誰もいないのだが、なんとなく帰りたくなかった。ぼくは夕摩(ゆうま)川に向かった。建物だらけの息苦しい街並に十分ほど耐えながら進めば、広大な河川敷が姿を現す。錆びたガードレールを越えて堤防を下り、川の近くまで進む。少々どぶ臭いにおいが漂っているが、ぼくはここが一番のお気に入りだった。人ごみや街は風の流れが悪くて嫌いだ。この場所に来れば、目の前には水しかない。対岸にはビル群が見えるのが。左側には高い位置に鉄橋が架かっており、ちょうど電車が通過していく。
 鉄橋の下に人がいた。腕を伸ばしてストレッチをしている。三十代後半は過ぎているように見える。あの人は間違いなく健常者だ。
 おじさんから視線を外し、正面を向く。……あの人は、やっぱ人間の基本的な寿命まで生きられるのかな。健康に気を遣ってるようだし、いま四十歳だとしてもさらに四十年ほどは生きていける。ぼくはおそらくあと十四年くらいの命だろう。身体が健康だから、そんなすぐに死ぬなんていつも実感が湧かないけど。
 ふっと、奇妙な風の流れを感じた。
 自然の風ではない。サッと左を向く。だが、なにもないし誰もいない。……いや、おかしい。さっきのおじさんがいない。
 上の方でなにかが動いているのを捉え、息を呑んだ。おじさんが、鉄橋の鉄骨に掴まって懸垂をしている。地面からそこまで十メートル以上は離れているのに、どうやって上がったのかわからなかった。足場なんてあるはずもない。……だったら、方法は一つ。あの人は、シムズだ。
 おじさんは手を離すと、背中からゆっくり落ちていく。興奮を抑えきれないぼくは全力で駆け寄っていた。おじさんは地面に近づくと体勢を直立にして下り立ち、こちらに気づいた。失礼があってはいけないので、こんにちは、と挨拶する。するとおじさんは優しそうに笑って挨拶を返してくれた。
「もしかして君もCIMSの子かな?」
 ぼくは首を傾けた。「シムズのこと?」
「あぁ。でも俺はその呼び方、あまり好きじゃないんだ。海外のシミュレーションゲームのタイトルみたいじゃないか」
 よくわからないのでさらに首を傾ける。おじさんはくすっと笑った。
「Congenital imbecile magic syndrome」
 ぼくはもっと首を傾けて、ついに体勢を崩す。雪に身体を突っ込んだ。おじさんは笑ってくれて、ぼくも笑みながら立ち上がった。
先天性(せんてんせい)魯鈍(ろどん)魔法(まほう)症候群(しょうこうぐん)だよ」
 それがどういう字を書くのかわからないけれど、なんのことかはわかる。「シムズの正式な病名でしょ?」
「ああ。こんな時間に元気な子供が外に出てると、校内で勝手に力を使って追いだされたんだろうな、ってすぐにわかる」
 なぜだかぼくは笑みを零してしまい、頭を掻いた。
「ねえ、おじさんは何歳なの?」
 おじさんはまた優しそうな微笑みを浮かべた。「一昨日で四十歳を迎えたよ」
 ぼくは思いきり息を呑んだ。「嘘だ、シムズはそんなに長く生きられない! ほとんどは三十歳を迎える前に死ぬはずだよ!」
「驚くのも無理はない。俺も長生きしすぎだと思ってる」
「信じられない……普通は力も衰えるんじゃないんですか?」
 二十五歳を過ぎると誰もが力を使えなくなっていく。徐々に弱くなっていく人もいれば、ある日突然力が消える人もいる。そうして、だいたい能力の消失と同時期に死ぬ。
「ピークのときに比べればかなり力は落ちたよ」
 ぼくは鉄橋を見上げた。あれに触れるほど身体を浮かせられるのに力が落ちたなんて、いったいこの人のピークってどれだけすごい魔術師だったんだろう。
「よかったら君の血液型を教えてくれないか」
 それがただのABOを指しているわけではないことはわかっていた。シムズはみんな、ABOの後に別の字がくっつく。
「ぼくはASSです」
 おじさんが眉を持ち上げた。ぼくは自嘲する。
「Sが二つくっついてるの、特殊なんですよね。だからって良いことはなくて、ぼくは炎も冷気もあまり発現できません」
 おじさんはゆっくりと数度頷く。「思いきり風に偏ったタイプなんだね。実は俺も君と同じなんだよ。俺はABSS型なんだ」
「すごい、ぼくより珍しい!」
 AB型自体があまりいないらしく、そこにさらにSが二つつくのは、もしかすると地球上にこのおじさんしかいないんじゃないのかな。
「おじさん、空を自由に飛ぶことってできる?」
「どこへでも自由に、というのはもうできない。昔は自在に長時間飛び回ることもできたけどね」
「すごい!」いま社会に出ている有名なシムズでも、自在に飛ぶことができる者は五人しかいないと言われている。テレビや本で顔写真を見たことがあるのだが、このおじさんは載っていなかった。
 おじさんは、対岸に見える都会のビル群を指差す。「あのビルまでは骨が折れるかな。でも真っ直ぐ対岸までは余裕で飛べるよ」
 夕摩川を飛び越えて向こう岸に着地。それは何度だって頭のなかで思い描いた。でも学校の四階からまともに着地できないぼくがやってのけるのは無理に決まっていた。
「見せてって言ったらやってくれる?」
 おじさんは微笑み、ぼくの頭に手が乗せられた。くしゃくしゃと撫でられる。
「見せてって言われたらやってみせるつもりだったよ」
 胸の高鳴りを感じた。ぼくが女の子だったら、好きになってしまっているだろうなどと考えた。ここに冷奈がいなくてよかった。冷奈がおじさんを好きになってしまったら、ぼくは絶対に勝てない。おじさんがその気になったら容易に冷奈の心を奪ってしまうのではと心配さえした。
 もやもやしているうちに、おじさんは後ろへ下がっていた。いくよ、と声をあげる。おじさんは駆けだした。ときおり雪が背後に向かって激しく散る。そのたびに加速する。川に突っ込む手前で、思いきり踏み切った。雪がバッと飛び散り、おじさんの身体が一気に舞い上がっていった。目で追うと太陽の光で眩む。おじさんはくるりと身体を回転させたあと、手足を広げた。すると落下速度が遅くなる。正面から風を受けているんだ。どうやったらあんなふうに綺麗に力をコントロールできるのか、全く分からないけれど、たしかに飛んでいた。あっという間に対岸の上空に入った。旋回していき、高度を下げていく。ふいにスピードが上がった。あの速さでは地面に激突するんじゃないだろうか──怖くて、両目を覆いそうになった。地面が目前に迫る。だがスーッと雪の上を滑っていった。遠くてなにが起きているのかわかりにくいが、激突せずに地面すれすれを飛んでいるようだ。ある程度進んでから、減速する。ふいに雪が舞い上がったかと思うとおじさんはバク転していて、地面に着地を決めた。開いた口が塞がらない。今度はこちらに向かって飛ぶ。ぼくの上空を通過すると、くるりと前転してお尻から地面に落ちる。ぶつかる直前で雪を舞い上げるほどの風を起こして減速し、着地した。おじさんがぼくに向かって歩いてくる。
「綺麗に飛べてた?」
 そう問われてやっと口を閉じた。ぼくは盛大に拍手した。
「ぼくにもできるかな」
「俺と同じSS型なんだからできるよ。特別に少しだけ力の使い方を教えてあげようか?」
「ほんと!? いまここで?」
 ああ、とおじさんは快い返事をくれた。「ただし、今後学校では無許可で力を使わないこと。これが約束できるか?」
 首が痛くなるくらい何度も頷きまくっていた。おじさんはそれを笑ってくれる。
「君の名前はなんていうんだ?」
「風無です。風無(かざなし)(まこと)といいます」
 おじさんの眉が一瞬だけ持ち上がった。そしてすぐに笑顔をみせた。ぼくの頭に手が置かれ、撫でてくれる。
「よし、少しだけって言ったけど、大サービスで君が空を自由に舞えるまで付き合ってあげよう」
「いいの!? おじさんは仕事で忙しいってことはないの?」
「もう組織にはほとんど関わってないよ。こんな年齢だしな。奴らは顔を出せってうるさいんだけどね。でも俺がひとり欠けたところ、代わりはいる。世の中の歯車は狂わず、同じ日常を繰り返すんだよ。だったら俺を必要としてくれる人の力になりたい」
 おじさんの優しげな瞳に吸い込まれてしまいそうだった。おじさんは周囲を見回す。
「ここはひと目につきすぎる。向こうの稲畑公園に移ろう。あそこは広いし、いまならあまり人はいないだろう」
 すでに数人が遠巻きでぼくらを眺めていた。道路に車を止めている人もいる。このおじさんが見せたパフォーマンスが常軌を逸していたからだ。同じシムズのぼくだって、通りがかりでおじさんの飛行を目撃したら、足を止めただろう。
 ぼくはおじさんの背中についていった。憂鬱な日常が変わっていく気がした。

 稲畑公園にはイチョウや(もみじ)、桜などの樹木が広い範囲に渡って植わっており、秋には手軽に紅葉が楽しめる。遊具が設置された広場や野球もできるグラウンド、児童プールや魚の飼育施設、ビオトープもあり、春から秋にかけては周辺住民が憩いの場として足を運ぶ定番の場所だ。冬になればめっきり人が訪れなくなる。緑地帯の遊歩道には誰もいなかった。陽がまともに射さないので雪が解けず、小川もあって寒気を誘うのだろう。ぼくらは健常者に較べて肉体が丈夫なので、厚着をしていれば平気だ。
 おじさんは落ちていた空のペットボトルを拾ってぼくに渡してきた。飛び方を教えてくれると言ったけれど、その前にゴミ拾いをするのだろうか。
「まこと、シムズが空を舞うにはどうしたらいいと思う?」
 そんなの全力で風を放出するしかない。そう答えたが、おじさんは首を振った。
「逆だ。常に自分に向けて力を発現するのが、もっとも楽な方法だよ」
 そんなこと、不可能だ。力は外側に向けて吐きだすもの。自分に向けて風を起こす? それは、自分に向けて息を吹きかけろと言っているようなものだ。
 ふいに風が顔に吹きつけられた。おじさんが、ぼくに掌を向けている。
「いままことに当たったのは、なんの力だ?」
「風の力に決まってるじゃん」
 おじさんは首を振った。「これはね、風をそのまま放ってるわけじゃないんだ。とある力を放出していて、結果的に風が巻き起こってるんだよ」
 おじさんがぼくに微弱な風を発現し続ける。
「そんな話、初めて聞いた」
「ああ。力の詳しい話は、組織入りしてからじゃないと教わらないからね。一足先に俺が教える。だが、これは誰にも言っちゃだめだ。この約束が守れないならこれ以上はなにも教えられない」
 誰にも言わないよ、と口にした。おじさんはぼくに向ける手の指を三本立てた。
「シムズが発現する三大属性を答えてごらん」
「風、火気、冷気」
 おじさんは頷く。「最初はみんなそうやって教えられる。でも風というのは違うんだよ」
 いままでぼくが発現していたのは風じゃない、なんて信じられなかった。手で顔を仰いでるのに「それは風じゃないよ」と言われたようなものだ。
「じゃあなんの力?」
「無属性の魔力(マナ)だ」
「ムゾクセイのマナ?」
「ただの魔力っていう意味だよ」
 魔力がぼくらの身体にあって、それが風や火や冷気になる、というのは習っていた。おじさんは魔力のことをマナと呼ぶらしい。
「俺たちは魔力(マナ)により、超自然的な力を発現できる。同時に、この魔力(マナ)が、CIMSを発症させる根源でもあるんだ」
「シムズになるのはウィルスが原因じゃないの? そうやって教わったよ」
「ああ。その魔力(マナ)が、ウィルスでもあるんだよ」
 おじさんたちの間ではCIMSを発症することを、魔力(マナ)感染と言うらしい。胎児にしか起こらないもので、発症は極めて稀だと教えてくれた。
魔力(マナ)のウィルスといっても、全部同じ型というわけじゃない。このことは話すと長くなるし、いつか教わることだ。とりあえず話を戻そう」おじさんはゆっくり離れていく。「つまり空を飛ぶには、魔力(マナ)を自分に向かって発現するんだ」
 魔力(マナ)を発現することで結果的に風が起きる。それは理解できたけれど、やっぱり自分に向かって発現する、という意味はわかりっこない。
「いまの君にとっては蛇口を捻ったみたいに疑問が一方的に湧くだろうから、まず俺がやってみせる。百聞は一見に如かず。そのボトルを掌の上に載せて、俺に対して横を向いてくれ」
 内心、できっこないと馬鹿にしていた。右手にボトルを載せて身体は横を向ける。腕を充分に伸ばすように言われ、そのとおりにする。おじさんは左腕を持ち上げ、掌をこっちに向けた。攻撃してこないとわかっていても、シムズに手を向けられれば警戒し、ほぼ反射的にいつでも力を相殺するような心構えになってしまう。でもあの人は、このボトルを自分に向けて飛ばすと言っているんだ。向こうから力を当てれば当然、おじさんとは逆方向に飛ばされるのに──
 ふわりと風を感じた。おじさんが能力を使ったんだとすぐにわかる。そっちから吹いた風だし。だがあまりにも微弱だ。これではボトルを揺らすことさえできない。
 ポン、と音が響いた。その瞬間が唐突で身がすくんだ。掌のボトルが、ぼくの視界を横切って、おじさんの方へと吹き飛んでいた。風上には風を発現した人物なんかいない。
 パシッ──
 音が聞こえたほうに顔を向けると、おじさんが右手でボトルを掴んでいた。
「まずはこれができるようになる必要がある」
 ぼくは目を見開いていた。実践してもらったのに、一連のことが信じられない。……ぼくらは、力を放出する以外のこともできるんだ。



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