彼女が僕の中にいる

第四話.僕が僕に口づけをする(page.A)



 中学三年のマラソン大会の前、弥城に誘われて毎夜、走った。弥城は体格が良い割に瞬発力もあり、足が速いのだが、長距離が苦手で、マラソン大会では全く良い成績を残せずにいた。対して真白雪兎は、貧弱な割に持久力だけはあり、一年は七位、二年は九位でゴールした。それを見込んで弥城は練習を誘ってきたのだった。
「真白はその小さな身体に驚異的なエネルギーを秘めてるんだな。それなのに筋力がないなんて、宝の持ち腐れだ。努力さえすればお前は俺以上の、しなやかで完璧な肉体を持てるだろうに」
 僕の持久力を目の当たりにして、よくそんなふうに筋トレを勧められた。でもやる気が湧かなくて、弥城の言葉を否定していたんだ。それがこうして、握力のトレーニングに付き合うようになって、まるで自分のことのように喜んでくれていたのではないだろうか。

 僕は、雪兎にワックスをつけさせたことを激しく後悔した。
 OCの授業のとき、守丘にワックスの臭いに気づかれ、散々いじられた。昼食のときもそのことをネタに、木場も参加して嫌がらせをされ、西村さんが自分の席を叩いて立ち上がった。怒ってくれたのだ。嬉しかったけれど、同時にひやりとした。西村さんは他に何もせず、弁当を放置したまま教室を出ていった。
「今のなに?」木場がへらへらと笑う。
「オレらに威圧したんじゃね?」一条がこちらを向く。
 西村さんが目をつけられてしまうのだけは避けたくて、全力で申し訳なさそうな態度をとれ、と指示を出した。雪兎がその行動をとったからか、木場が突き飛ばすような具合に肩を叩いてくる。
「お前のせいだぞ。後で謝っとけよ、女は怒らせると怖いからな」
 木場という人間は女好きであり、同時に、女に畏れを抱いている面もあった。一年のとき、すれ違い際に太った女子生徒とぶつかったとき、冗談半分で怖がっていた姿を思い出す。僕とぶつかったときは睨みつけられ、怒気をこめて「謝れ」といわれた。嫌悪している相手には攻撃的な姿を見せるはずなんだ。どんな女子生徒にも気持ち悪いなどという言葉を吐いたことはないし。だから女性には強気な態度が取れないと仮定できる。
 木場は去っていった。一人が興味を失えば、連鎖的に他の人もそうなる。僕らは安堵した。最後に守丘が「真白君が学校に来てなかったらこんなことにならんかったのに」と言いがかりを囁いて離れていく。少し経ってから西村さんは戻ってきたが、雪兎は申し訳なさから、彼女の顔を見られなかった。
 帰り道、僕は西村さんに電話しなよと勧めた。彼は抵抗を示す。今日のことについてお礼をいうだけのために女性の家に電話するなんて失礼だと思い込んでいた。そんなことはなくて、西村さんのようなタイプとの付き合いはもっと攻めるべきなのだということも、当事者ではない今の僕には理解できる。
 僕の強引な推しもあって、渋々、電話することに決めた。その際、真白雪の伝言も話すことに。家に帰って一時間ほど置き、そろそろ掛けよう、となると心臓が激しく脈打ちだした。そういえば昔、初恋の女子の家に電話しようとしたことがあったっけ。緊張のあまり結局できなかった。あの頃より成長したはずだが、まだ容易いことではないようだ。
 僕は心理療法を試そうと思い立った。高一の頃に読んだ本に書いてあったことなのだが、こんな状況なので彼からはそれがすっかりと抜け落ちている。
『雪兎、電話を掛ける手前まで携帯を操作して。掛けなくていいから』
 そう指示してやると、彼は気楽に指を動かした。
『よし、通話のボタンを押そう』
 途端に拒絶反応を起こす。指が震えた。
『緊張を先に持ってくるから電話ができないんだ。不安に打ち勝った先で電話を掛ける、なんて君は意識してるけど、そうじゃなくてさ、不安感は雪兎にとって自然なことなんだって受け入れるんだよ。その気持ちのまま、とりあえず掛ければいい。さあ押して』
 彼の脳裏には西村さんとのやりとりのイメージが渦巻いている。うまく話せるか、格好悪い姿をさらすのでは、迷惑がられるのでは、と。それを考えるのは通話のボタンを押してから、と落ち着いた口調で伝える。彼は思いきるように、ようやくボタンを押した。携帯を耳に押しつけて、露骨にコール音を意識する。拍動が更に速まっていく。
「はいもしもし、西村です」
 ふいに出たその声は、大人びてしっかりとした、高めの音域だった。あ、と彼は声を出しかけてから、気づく。西村さんの名前を知らない。頭が真っ白になり、「あ、えっ、あの」としどろもどろになった。やれやれという具合に僕はため息を発した。
『西村さんの名前は、西村のぞみ。ちなみに漢字で望む海って書くんだよ。真白ですが西村望海さんはいらっしゃるでしょうか? さん、はい』
 彼は僕の言葉を述べた。その裏で、なぜ名前を把握しているのかという疑問を抱く。二年の最初の頃にあった自己紹介で聞いているのだが、彼は思い出せなかった。
「やっぱり真白君だ、そんな気がしたよ」
 なんと、声の主は西村さんだった。
「ああ、西村さんだったんだ、違うかと思っちゃった」
「よくいわれるよそれ。私、おばさんみたいな声でしょ」
 全くそんなことはない、と彼はきちんと否定した。実際にそう思っていない。
「でも友達にいわれたことがあるから。嫌になっちゃうよ」
 彼は返す言葉に迷う。
『僕は望海の声、たまらなく好きだなあ。まるで子犬が鳴いてるみたいだ。さん、はい』
 んなこといえるかよ、と彼は思う。「僕、電話のとき耳が遠いっていわれたことあるんだけど、西村さんの声は聞き取りやすくてよく頭に入ってくる」
 こやつうまいことを言いよる。
「そうなの? じゃあ、良かった」
 うん、と返す。で、言葉に詰まる。今日のことについて礼を述べるんでしょ、と助け舟を出した。
 一度会話を始めると、胸中にあった緊張がほぼ消滅していた。最初に西村さんと会話したときと同じだ。人間というのは、行動さえ起こせばなるようになる。嫌な失敗に繋がることもあるけれど。でもその先にしか望んでいた成功は存在しない。
 教室で西村さんが物音をたてたのは、やはり雪兎のことが関係していた。耐えきれなくて、止めたくて、そんなことをしたのだという。彼女の情の厚さを感じた。
「西村さんが怒ってくれたの、嬉しかった。でも西村さんまで目をつけられたくないから、また同じようなことがあったら、今度は見守っていてほしい」と、雪兎にいわせた。
 うーん、と渋る声。「わかりました。真白君のこと見守ってます」
 怒っている感じがするのは気のせいだろうか。
『雪兎、真白雪からの伝言をお願い』
 彼は承知する。「西村さん、雪から伝言を受け取ったんだけど、聞いてくれる?」
「あ、私のこと喋ってくれたんだ。聞きます聞きます、教えてください」
 僕は考えていた言葉を述べる。それを彼が口で発してくれる。
「こんにちは西村さん、真白雪です。雪兎から私の話を聞いて、好きになったと仰ってくれたそうですね。私も同じです、これで両想いですね、付き合ってください──」
 なにいわせるんだよ、と彼は胸中でつっこむ。とか言いつつ口にしてくれた雪兎であった。ウケたようで、西村さんは小さく笑っている。
「今、笑いましたね」
「え、すごい、そこまで想像できてるんだ」と彼女は素直に驚く。
「私の想像する西村さんは、そういった冗談も通じる素敵な人です。西村さんは、人に自慢できる趣味もなくて、地味で申し訳ないなんて思っているそうですね。私はそんなこと全く気にしません。私にとって、あなたと友達になれることが、価値だから。私は友達がいないんです。誰も私を知らない。私は存在があやふやで、自分がここにいるということに自信が持てない」
 自分はなんなのか、わからない。これから先どうなるのか。仮に外へ出れたとして、生活を送るとして、僕の戸籍は? この社会で生きられるのか。出生を証明することはできない。不安、不安不安不安不安──不安だらけだ。僕は自分が真白雪兎だということを捨てることができない。それはこの先ずっと、できないことなのだろう。なあ雪兎、僕は、本当は恐ろしいんだよ。どうして真白雪としての身体と意識を持ってしまったんだ──
「落ち着いてよ!」
 彼の大声にハッとした。
「やっと止めてくれた。さっきから何いっても、雪はぶつぶつ言い続けるんだから」
『ごめん、急に色んなことが恐ろしくなってきてさ……』
 彼は、その悩みなどに関してできる限り雪が望む一番良い方向に解決していきたい、そのためなら精一杯、力になってみせるから、という思考を過ぎらせていた。
 消音を解除して耳に当てる。「ごめん西村さん、携帯を変なところに落としちゃって」
「あ、そうだったの。急に途切れるから電波が悪くなったのかと思ったよ。続きを聞かせて」
 僕は続きを口にする。雪兎がそれをいう。「私は、自分の存在感がひどく不確かなんです。だから私を知って、私を好きだといってくれる友達が欲しかった。そんなとき西村さんのことを聞いて、雪兎を通じてだけど知り合いになれた。付き合ってほしい、という言葉もきっと笑って受け止めてくれてる。私の想像通りなら、あなたしかいません。西村さん──あ、いっておくべきことを忘れてました。今は一人称を私といってますが、普段は僕、と口にしてます。いわゆる僕っ娘ってやつなんですけど、そういう人に抵抗ありますか? 答えてください、それにより別々の台詞を用意してます」
 そこで言葉を切る。答えていいの? と彼女がいい、雪兎が肯定。
「えっと、正直ね、私、震えた。ドン引きしたっていう意味じゃないよ? 私、そういうどこか周りと違う、変わった子と友達になりたかったの。だからすごく嬉しいです」
 続きを口にする。「実は台詞は一つしか用意してません。西村さんは、こんな私を肯定してくれると信じていたから。改めて、西村望海さん。無粋なことは言いません。もう私たちは友達です。ちなみに雪兎は友達ではなく、私と西村さんの下僕(げぼく)です、奴隷です。今後はぜひ顎で使ってください」
 いや僕に何をいわせるんだよ、と彼。などと思いつつ口にしているのだが。
「今度、必ず下僕と共に家にお伺いします。それでは、会えるときを楽しみにしております。真白雪より」
 そこまで口にすると、彼は小さく息をついた。
「なんか、すごい伝言だね。まるで雪ちゃんがその場にいたみたい。私、結構ヒマしてるから、都合が合うときに来て。私が行ってもいいんだけど……真白君、私の家の電話番号、雪ちゃんには教えた? それと、良かったら雪ちゃんに繋がる電話番号教えて?」
 その質問が来たか。どうするんだ、と彼は問いかけてくる。
『雪の家には固定電話がないっていうしかないね。それで、親は携帯を持ってるけど、過保護だから一切使わせてくれない、って。友達との電話もできないって』
 西村さんにそう伝えると、それはひどい、と怒り口調でいってくれた。
「私とは逆なんだ」
「どういうこと?」雪兎が訊く。
「ううん、口を滑らせちゃった。暗い話になるから、訊かないほうがいいよ」
 僕にはまるで知ってほしい事柄のように聞こえた。彼が勝手に口を開こうとして、その前に西村さんが「えっと」という。
「来てくれるなら明日でも明後日でも構わないから。なんにも予定ないし」自嘲した。「弥富だとかなり距離があるよね……きっと電車だよね。ウチに泊まってくれてもいいから」
 僕が、西村さんの家に、宿泊する。やばい興奮してきた、僕は外見が女だから、もしかしたら彼女の布団に潜りこんでも文句をいわれないのではなかろうか。
「もちろん、真白君も一緒にいいよ」
 次の瞬間、雪兎の脈が乱れた。どきり、という音が聞こえたようだった。脳内は不純な想像で満たされる。僕は笑った。自嘲だ。
「いや、僕はまずいと思うのですが」
「雪ちゃんと一緒なら大丈夫。私の両親のことを心配してるなら、それも問題ないから。私ね、男の子とお泊りしてみたいなあって思ってたの──私、かなりおかしなこといってる? 真白君って話しやすいからすっかり忘れてたけど、会話したのはこの前が初めてなんだよね。私、空気が読めなくて、意味不明だっていわれたこともあって……」
 僕は雪兎に向かって口を開く。『君が男女のベッドインを連想してムラムラするのはわかるけど、西村さんは純粋に男の子とお泊り体験したいだけなんだって。それを理解してる態でフォローしてあげてよ』
 彼は頭を切り替えた。「雪が家に泊まりにきたことって何回かあるし、西村さんの気持ちわかるよ。僕も、西村さんの家に泊まって遊びたいって思う、雪と一緒に」
「そう? よかった」
「そのことも僕から伝えておくよ。いつにするかっていうのも訊くから」
「うん、決まったら教えて。電話でもいいし、学校で直接でもいいから」
「わかりました」
 ふう、と彼女が息をつく。話題はなくなり、無言になった。
「そろそろ、切りますか?」
 ツボだったのか、その敬語が可愛らしく感じた。僕も、雪兎も。
「うん。本当に今日のこと、ありがとう」
「いえいえ。じゃあね、真白君」
 電話が切れると、上がっていた彼の肩が元に戻り、大きく息を吐いた。
『傍から見てて僕は思ったよ、君たちはラブラブカップルになれる』
「なにいうんだよ」
 雪兎は携帯を布団に放り投げた。心の中で、僕に好意を寄せてくる。それについて何か言いたいが、考えられず、お互いが沈黙に落ちる。僕は言葉を紡いだ。
『でも雪兎、自分も泊まっていいってわかった瞬間、もろに不純な展開を妄想したよね』
 と、僕が口にするだけでまた昂ぶっていた。
『ほら、肉体は正直だ。アソコが反応してるよ』
 ぶぐ、と彼は吹き出す。羞恥心を感じている。
『君と僕の仲だろ、なんで恥ずかしがる。したいんでしょ? 普段通りヌけばいいのに』
 そう勧めるのだが、西村さんをネタにすることに気が引けているようだ。それが僕に対する浮気になるから、と。
『僕はそんなことどうでもいいし、君は僕が中にいなかったら、今やってる』
 彼は沈黙の深淵に落ちていく。どうしても僕との関係を望み、男の本能を満たせないことに苦しみだしていた。そんな姿がかわいそうで、僕の心は痛んだ。



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