5.結婚もしてない 五日後、藍里がぼくを迎えにきた。 「私が悪かったから、お願い、戻ってきて」 その一言で、ぼくは彼女のすべてを許した。ぼくも自分の非を謝った。 アパートに戻ると、たった五日でなにがあったのかと思うほど、ゴミや衣類が散乱していた。空になった弁当やカップ麺が部屋の隅にそのまま。コバエがたかっている。 彼女が仕事に行っている間に片づけ、洗濯をし、フローリングをピカピカにした。買い物へ行って、彼女が帰る時間に合わせて料理をテーブルに並べた。 帰ってきた藍里は、感動して泣いた。 「一帆、やっぱりすごいよ……私、家事がなんにもできなくて、やってみてもすごく辛いだけでさ……一帆はこんな大変なこと毎日かかさずやってくれてたんだって、思い知ったの。ごめんね。私、本当にひどいこと言った」 ほんとだよ、といじわるを言った。藍里はうつむいて謝罪を繰り返した。 彼女の背後に回り、ぎゅっと抱きしめる。 「わかってくれてありがとう」 藍里は顔をこちら向ける。ぼくは唇を重ねた。 五日ぶりに肌を重ねる。充分に前戯をして、藍里が「ちょうだい」と言った。 ぼくはコンドームを探し―― 「あ、ごめん! そういえばゴム捨てちゃった」 「え、どうして」 「だって、もうしないと思って」 「じゃあできないじゃん」 「いいよ、ゴムつけなくて」 「それはまずいよ」 「いいの。私、覚悟できてるから」 「いや、ダメだよ。藍里に迷惑かけられない」 「……そう」 「いつかゴムなしでしよう」 「それ、いつ?」 「わからない」 「私、もう二十九になる。そろそろ子供のこと考えたい」 ぼくはふっと笑った。「まだぼくら、結婚もしてないよ」 「じゃあ結婚しよ」 ……なぜだろう。妙に迷ってしまった。 藍里との結婚はもちろん考えていたし、他の人と結婚なんて考えられなかった。 でも現状、ぼくが無職で、なにもしてない。藍里との結婚が嫌なのではなく、こんなぼくじゃ、やっぱりダメだと思った。彼女を幸せにできない。 ふいに藍里の両手が、ぼくの顔を包む。 「冗談よ。そんな思いつめた顔しないで」 「なんかごめん、すぐ返事できなくて」 「ううん、急に重いこと言った私が悪い」 「藍里との将来は真剣に考えてるよ。それだけは本当だから」 藍里は微笑んでうなずいた。 その日、ぼくらはセックスをしなかった。代わりに、抱き合いながら眠った。 一大決心。ぼくはついに仕事を探しはじめた。 ちゃんと就職したくなった。働いて、立派な男になりたい。 でも、現実は甘くなかった。 ぼくが働きたいと決意しても、ぼくを働かせてくれるところがなかった。 何十件も面接を受けたのに、全部ダメ。 ……大した学歴もない、ずっと無職だったぼくには、正社員になる権利なんてないのだろうか。 がんばれる人なら、くじけずにもっとたくさん面接を受けられるのだろう。まずはアルバイトを探す道だってある。 でもぼくには無理だった。心がすり切れて、なにもかもやる気を失っていた。 藍里はぼくの努力を認めてくれた。慰めてくれた。 以来、ぼくが仕事を探さなくても、なにも言わなくなった。加えて、藍里はぼくに構っていられないほど忙しくなった。職場のチーフになり、色んな仕事を任されるようになって、休日も仕事だった。帰りが遅くなり、ぼくの作る料理を口にしなくなった。 セックスを誘っても「すごく疲れてる」と断られた。何度も断られつづけるから、駄々をこねたくなるけれど、彼女は立派に働いているし、毎日大変そうだし、強引なことは言えなかった。 「しかたないよ。調子がよくなったら、そのときしよう」 そう言うしかなかった。 そんな日々が、半年以上つづいた。 鍵の開く音。時刻は十八時。 こんな時間に藍里が帰ってくるのは珍しかった。 ぼくは嬉しくてばっと起き上がったけれど、食材がないことを思い出して焦った。藍里が食べなくなってから買い出しに行かず、パスタやコンビニ弁当しか食べていなかった。 藍里が部屋に入ってくる。 「こんな時間に帰ってくるの珍しいね。ご飯食べる? すぐに買い物行くから――」 男が後ろに立っていた。 ……誰? 「お客さん?」 「こんばんは」男が藍里の前に出てきた。 チャラそうな人だった。真っ赤な髪で、室内なのにグラサンをかけている。 男はグラサンを外し、ぼくをじろじろ見ると、何度かうなずいた。 「仕事できなさそうだな」 突然そう言われて、恐怖を感じた。もしかして、藍里がぼくの就職先を見つけて、職場の人がぼくを見に来たのだろうか。 「ずっと働かず、あいりんに甘えてるんだろ」 ……あいりん? 「あんた、なんですか」 「は? あいりん、なんも喋ってないん?」 藍里がうつむく。 「俺、こいつと真剣に付き合ってるから。で、こいつと同棲することになったから、とっとと出てけよ」 なにを喋っているのか判断できなかった。 「ちょっと、言い方が乱暴すぎる」藍里が小声で言う。 「これぐらいの言い方しないとダメ。こういうタイプの男、よく知ってるもんね。甘やかすととことんつけこんでくる寄生虫みたいなやつだよ絶対」 「で、でも……」 「あいりん、約束しただろ。甘い面見せないって。共依存を終わらせたいんだろ? きっぱり縁切れば、絶対このダメ男は一皮むける。俺に任せとけって」 「待てよ、ふざけんな! いったいなんの話をしてんだ!」 藍里が驚いた。ぼくが大声を出したことなんて、一度もないからだろう。 「頭のわりぃやつだなあ。つーか、あいりんがきちんと話さないからいけないんだぞ」男が藍里の頭を小突く。それから、藍里の肩を気安く抱き寄せた。「ずっと前から俺があいりんと付き合ってて、あいりんはお前ときっぱり別れたいの」 頭がぐらぐらする。 目の前が真っ白になる。 ばたん。 目を覚ますと、藍里がのぞきこんでいた。 ぼくは布団にいた。 飛び起きて、周囲を見渡す。あの男はいない。 「あぁ、そうか。夢だったのか」 藍里が暗い顔でうつむいた。 「すごく嫌な夢みた。けど起きたら傍に藍里がいて、安心したよ。ありがとう」 藍里はなにも言わない。ぼくは自嘲した。 「夢じゃないね」 「ごめんなさい……」 怒りがこみあげた。ぐっとこらえ、自分がどう言えばいいのか、どうすれば一番藍里のためになるのか、考えたけれど、その言葉は喉を通過しなかった。 「ぼくのこと、好き?」 代わりに、そんなことを聞いてしまった。 藍里はしばらく無言だった。 ぼくは我慢して待った。 やがて藍里は口を開いた。 「ずっと付き合ってきたから、一帆に愛着はある。でも、もう、男性として好きじゃない」 「あぁ……」 神様。お願い。 時間を戻して。 「ひどいよ」 「ごめんなさい」 「藍里のこと、なにも擁護できない。なにひとつ肯定できない。絶対おかしい。こんな仕打ち、あんまりだ」 「本当にごめんなさい……」 「な、なんで、どうして」 藍里が泣きはじめた。「あの人のこと、どうしようもなく、好きになっちゃったの。あの人……マコトさんは、同じ職場で働いてる人。最初は、好きでもなんでもなかったんだよ? しつこく私に迫ってきてね、一帆がいるし、お付き合いするのは無理って言ってたの。私、がんばって断った。でも、何度も何度も、私に告白してくれるの。何度も私に愛を誓ってくれるの。真剣なの。それでいて、不思議な優しさを持った人なの」 頬を緩める藍里。 「あ、あの人が、ぼくよりも……優しい人だなって、思えるの?」 「一帆の優しさって自分のためじゃん。一帆、ずっと昔にそう言ってた。優しさというのは、人のためにするんじゃなくて、自分のためにするものだって。あの人は、本当に、私のために優しくしてくれる」 違う、ぼくはそんな自分勝手な理由で言ったわけじゃない! 「ぼくが言いたいのは、人のために尽くすんじゃなくて、自分のために人に尽くすほうが正しいってことなんだよ。それが本当の優しさだって、そう言いたいんだよ」 「……よくわからない。それになんか、その考え、気色悪いよ」 はっ、とぼくは笑った。 もう無理なのだと悟った。 「出ていってほしい?」 答えはわかってるのに聞いてしまう。 「本当に申し訳ないけど……出てって」 胸に突き刺さる藍里の拒絶。 また目の前が真っ白になる。 でも気を失わなかった。怒りがぶり返した。 「最後に一つ聞いていい?」 「なんでも聞いていいよ」 優しそうに言ってくれる。それが余計、腹が立った。 「もうあいつとやることやってんの?」 うん、とすぐにうなずく藍里。 怒りが爆発した。 藍里を押し倒し、罵倒した。 アバズレ、浮気女、ビッチ、卑怯者! 藍里は悲鳴をあげる。 ぼくはぶん殴ろうとした。 できない。 藍里の衣服を剥いでめちゃくちゃにしたかった。 できない。 いくら怒りで気が変になっても、実際に藍里を傷つけるとなると、強い制御が働いた。 それだけ藍里を愛しているのだとわかった。 脱力して、涙がこぼれる。藍里が悲鳴をやめて、憐れんだ目でぼくを見ていた。ごめんね、と藍里は小さく言った。 「あいりん、大丈夫か!」 男の声。 突入してきた男が、ぼくと藍里を引き離す。 男がぼくの上に乗った。 殴られる。 やり返す。 殴られる。 やり返――殴られる。 殴られる。殴られる。殴られる。殴られる。 「マコトさん、もうやめて!」 「二度とあいりんに近づくんじゃねえぞ!」 殴られる。 男の手が止まった。 男はぼくを見下ろしている。勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。 「お前じゃ、あいりんは幸せになれない。俺があいりんを幸せにする。いいな」 なにかに酔ったようなセリフだった。 ぼくはもうなにも言えなかった。はやくこの危険な場所から逃げたい。 男が財布を取りだして、ぼくに一万円を投げ捨てる。 「俺は優しいからな。治療費だ。荷物をまとめて、明日には消えてろよ」 そう言ってから、二人が出ていってくれた。 |
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