第零話 「赤髪の巫女」‐神楽 那美‐


  1


 その昔、とある山奥のお社に、赤い髪の巫女がいた。名を神楽(かぐら)那美(なみ)という。
 那美は社の宮司の子で、髪の生え始めの頃は極普通の黒髪だった。だが、いつかを境に赤髪が生えるようになった。時が経つにつれて赤髪は増え、そのうち那美の髪の全てが真っ赤になった。
 社は、縁結びの神を(まつ)った社だった。宮司は、那美の赤髪を神からの授かりものだと信じてやまなかった。
 宮司は那美に、決して髪を勝手に抜かず、勝手に切ってはいけないと命じた。洗髪は丁寧に行い、自然に抜けた髪は全て拾い、社に供えるようにと命じた。
「那美の赤い髪は、神様からのものなのだから」
 いつも那美にそう言い聞かせていた。

 那美のことは、すぐに里に住む者たちにも広まった。すると宮司とその妻は、那美から決して目を離さなかった。物珍しい那美をさらって売り飛ばす者がいるかもしれないし、祟りだという者もいたから。なので、決して那美には里まで下りないよう命じた。那美は軟禁状態で育てられた。
 物心ついた頃から、那美は巫女としての振る舞いを宮司に教え込まれた。那美が五歳になると、赤髪の巫女として那美は社の祭壇に祀られ、「お披露目」された。
 那美をひと目見ようと、多くの人が社にやってくるようになった。縁結びとは関係のない者も来た。忌み嫌う者もいたのだが、次第に那美は神聖なものとして崇められるようになった。赤髪を欲する者もいた。
 そこで宮司は、奉納金と引き換えに、供えられていた赤髪を那美の手で結わせた。小指が愛しいものを表す指なので、「愛しいものと縁があるように」「より結びつくように」という意味を込め、婚姻の指輪をはめる指の隣、左手の小指に蝶結びで結った。
 すると驚くべきことに、効果があった。独り身の者には出会いがあり、愛する人がいる者は婚姻し、不仲な者は仲を取り戻し、既に夫婦となっている者は、より仲むつまじくなり、不妊に悩む者は子どもを授かった。その効能は絶大で、「縁の幸せを神の力で呼び込んでくれる」と、社は評判になった。
 那美の赤髪は、不思議なことに決して勝手に解けることはなく、時が経つと自然と切れた。髪を結われた者たちは効果がなくなったからだと思い、ある者はまた、社に赴いて赤髪の巫女に髪を結ってもらった。
 那美のおかげで宮司の社は力を増していった。宮司自身もより崇められるようになり、縁結びの幸せを求める者が続々と社を訪れた。ときには遠くの地方からやってくる者もいた。
 何年もの歳月が流れてもそれは変わらず、むしろ宮司が世間に対する支配力を強めていった。那美は大きくなるにつれ、外への興味を持っていったのだが、里に下りることは堅く禁じられた。禁じられても、「里に下りてみたい」「外の世界を知りたい」と那美が強く望むときもあった。そんなとき宮司は、「十五歳の成人を迎えたら許そう」と那美に言い聞かせていた。里は、十五で立派な成人と見なされ、毎年宮司が成人の儀を執り行っていた。
 那美はその約束を糧に、赤髪の巫女としての役目を立派に果たしていった。


  2


 歳月が流れ、那美は十五歳になった。
 成人の儀は毎年里で執り行われていたので、そのときは間違いなく里に下りられる。
 けれど、状況は変わった。宮司の強い意向で、成人の儀を社にて執り行うと決めた。宮司の言うことなので、里の者は誰一人、それに背くことはなかった。
 那美は、嫌な予感がした。

 その年の成人は、那美を含めて六人だった。那美はこのとき初めて、祭壇から同じ歳の人を見た。那美は同じ列に加えてはもらえず、あくまでも巫女として、その場にいただけだった。
「赤髪の巫女様って、本当に赤い髪なんだな」
 列の中にいる一人の男が、隣の者にそう囁いた。
「あの長く綺麗な赤髪を小指に結ってもらうと、良い出会いがあるらしいわよ」
「へえ〜、それはすごい。是非とも今度結ってもらいたいな」
「なあ、そんなことより、巫女様って美しい顔立ちをしていらっしゃるな。綺麗だ」
 那美は今の言葉を言った者に視線をやった。それは、嬉しかったから。顔を確認したくなった。
 その男は、左之助(さのすけ)という者だった。ひょうきんで、思ったことをすぐ口にする者だったが、しっかり者で割と顔立ちの良い男だった。
「当然でしょ? 神様の子なんだから」
 神様の子、などという言葉は、那美にとって悲しいだけだった。
「静かに」
 経を読んでいた宮司が言った。
「今年の成人は実に元気が良い。ただ、今日からもう子どもではないのだから、時と場所を弁えるように」
 皆は口を揃えて「すみません」と言った。
 それだけで、那美はくすくすと笑いだしそうになった。けれど神聖な巫女として、その感情はグッと抑えた。

 めでたく那美も成人となったのだが、やはり宮司は里に下りることを禁じた。もし那美が里に出れば、神聖な赤髪の巫女としての印象が崩れてしまうし、里の者たちが動揺してしまうだろう、という理由で、那美の軟禁を続けた。
 那美はそれに従うしかなかった。今までそうやって生きてきたのだし、自分の力で他の人たちが幸せになっているのだから、成人を境に気持ちを切り替えて、赤髪の巫女として立派に役目を果たしていこうと考えを改めた。
 那美の気持ちが切り替わったことを、宮司はそれとなく悟った。里に下りたいなどと言わなくなったし、成人の儀を境に、一段と振る舞いが巫女らしくなった。巫女としての勤めも、自ら進んでやるようになった。
 それが一年続くと、宮司は安心した。そうして、以前からその計画があったのだが、宮司は宮大工に頼み、赤髪の巫女のための社を、境内にあるご神木の傍に建てた。那美はそこで赤髪の巫女としての役目を執り行うこととなった。
 ますます宮司の社は栄えていった。絶大な縁結びの力は留まることを知らず、全国に赤髪の巫女の噂は広まった。遠方からやってくる者が増えた。
 そんな折、里から一組の若い男女がやってきた。那美は、二人の顔をよく覚えていた。
 その二人とは、成人の儀で会った左之助と「神様の子」と言った女だった。女の名前は香代子(かよこ)といい、庄屋の娘だった。
 左之助は、あまり地位の高い家系の者ではなかった。だが、性格と容姿が女たちから気に入られ、複数の女から婚姻を迫られていた。左之助にとって、里の者は誰一人魅力的ではなかったのだが、身分の低い親は左之助に、香代子と婚姻するよう押し迫ったのだった。そうして、近々婚姻することが決められていた。
 左之助は気乗りしていなかった。その心情を察した香代子が、赤髪の巫女の元に連れてきたのだった。
 深い事情を那美は聞かなかったが、婚姻することだけは香代子の口から聞かされた。更に二人の愛を深めたいということだった。
 那美の中で戸惑いがあった。それは、赤髪を二の次にして容姿を賛美してくれた左之助を想う心があったから。けれど、余計な私情を挟んではならないと、那美は自分の心に釘を打った。赤髪の巫女として、縁が更に深くなるようにと、供えられていた赤髪を二人に結った。
「では、お互いのことを強く御思いください。その想いが強ければ強いほど、縁の神はお二人を強く結びつけるでしょう」
 香代子は当然、左之助を心に想った。
 だが、左之助は違った。このとき左之助の胸にいたのは、赤髪の巫女だった。左之助は、成人の儀以来ずっと巫女を想っていた。だからこそ香代子とこの場に来たのだった。
 黙想を終えると、那美は言った。
「結われた赤髪は決して自然には解けません。小指に赤髪がある限り、相手を慕う心が強く在り続けます。自らの手で解いてしまえば、その作用はなくなります」
「え、じゃあ巫女様」香代子が口を挟んだ。「もし私が、不注意でこの赤髪を解いてしまったら、左之助への想いはなくなってしまうということですか?」
「いいえ、そうではありません」
 赤髪を結いに来た者の中には、よくそうやって問う者がいた。
「本来の想いはあなたの想いなので、それがなくなってしまうことはありません」
 宮司は「神の力が宿って幸せな縁を結びつける」と、疑って解釈をせずにその一点張りだったのだが、那美は赤髪の力がどういうものかをよくわかっていた。赤髪が縁を呼び込むのではなく、赤髪が幸せな縁を結びつけるのでもなく、那美の赤髪は想いを強くし、増幅する作用をしていただけに過ぎなかった。独り身の者に結えば恋に落ちやすくなり、愛する人がいる者に結えば想いが増して、より積極的に愛せるようになり、婚姻まで行き着く。不仲な者や夫婦は恋心を取り戻して仲むつまじくなり、不妊に悩む者は膨らんだ愛情が営みの回を増やし、妊娠をした。
 宮司は支配や権力、銭儲けに目が眩んでいたため、絶大な神の力だと吹聴していた。宮司の言うことだからと、皆がそれを信じていただけに過ぎなかった。宮司ならば、赤髪が解ければ神の力がなくなって想いが薄れると言う。そうすれば、自然に赤髪が切れた者は焦り、また結いに来るから。
 自分の境遇を良く思っていなかった那美は、支配や権力、ましてや里に下りられぬ身なのに、銭になど興味はなかった。赤髪の力がどういうものかを知った那美は、宮司にそれを伝えたが、宮司は聞く耳をもたず、「絶大な神の力」を強調していた。
「もし不注意で解いてしまった場合──」
 と、那美はその先を言い淀んだ。その先で、左之助の名前を呼ぶから。それだけで那美の心は揺れ動き、緊張した。
「左之助様に結び直して頂くと、良いかと思います」
 左之助は小さく笑った。「巫女様に様を付けて呼ばれるのは、なんだかおかしな気分です」
「巫女様だから丁寧に名前を呼んでくださってるんでしょ」と、香代子が言った。「すみません巫女様。こいつ、思ったことをすぐ口にしてしまうので……。無礼をお許し下さい」
「いいえ、無礼ではありません」
 那美は思わず笑んでしまった。神聖な巫女として、人間的な感情を抑えなければならないと教えられていたのに、口元は緩んでしまった。
 すると左之助が、「うわぁ」と声をあげた。
「巫女様は絶対に笑わないって聞いていたのに、笑った」
 那美は感情を抑え込んだ。口をぎゅっと噤んだ。
「失礼だよ左之助、天罰が下るよ」
「だって、巫女様が笑った顔はまた一段とお綺麗で、可愛かったから」
 那美の身体が急激に火照った。顔が真っ赤になっているんじゃないかと思うくらいに熱がこみ上げ、那美は俯いた。香代子は無礼を言った左之助を軽く叩いた。
「巫女様、本当にすみません。左之助には後でよく言い聞かせますから」
「いいえ、お気になさらずに」
 那美は俯いたまま言った。中々熱が引かず、自分の身体はどうしてしまったのかと焦った。顔を上げなければならない、と視線を左之助の方に向けたが、どうしても顔が見られなかった。左之助の顔を見るだけで恥ずかしさがこみ上げそうだった。
「赤い髪はいつか自然に切れます。それは決して縁が切れたわけではなく、赤髪の効能がなくなっただけなのでご安心ください。お二人に充分な想いが育まれていれば、もう赤髪は必要ないでしょう」
「左之助、自分で勝手に解かないでよ?」
「解くわけないよ」
 那美は俯いていてわからなかったが、左之助は那美を見つめながらそう言った。

 二人が行ってしまった後、那美は自分の状態がどういうものかに気づいた。
 左之助の顔を思いだすだけで身体が火照り、左之助と香代子の行く先を考えるだけで胸が苦しくなる。
 ──これが、恋心なんだ。


  3


 その晩、那美は母に、「私も良い縁に恵まれたいので、赤髪を小指に結ってほしい」と言った。しかし、それは宮司である父によって止められた。
「神聖な血を穢すような真似をするでない。那美はこの先も、穢れのない赤髪の巫女でなければならない。神に仕える身でありながら、穢れるような真似をすれば、赤髪の巫女としての力を失うだろう」
 そう言われ、那美は自分の指に赤髪を結わせてはもらえなかった。
 密かに結うことを考えはしたが、自分一人で蝶結びをするのは難しいし、そもそも、仮に結ったとしてもすぐに見つかってしまうだろう。それに、もう左之助は来ないだろうし、左之助には既に相手がいるのだから。自分に赤髪を結ったところで、恋は叶わない。
 そう思い、那美は左之助を諦めた。左之助と香代子の幸せを密かに願うことにした。

 だが、那美の諦めに反して、左之助は那美のいる社に一人で訪れた。そうして、唐突に言った。
「巫女様、俺はどうやら、巫女様のことが堪らなく好きなようです」
 急なことに那美が呆けていると、左之助は言葉を続けた。
「昨晩は巫女様のことを考えて一睡もできませんでした。俺は、成人の儀があった日より、ずっと巫女様のことを想っていたのです。ですが、全く世界の違う人だからと諦めていました。でも、昨日、巫女様の笑ったお顔を見て、俺と同じ人間なんだと気づいたんです。そうですよね?」
 どう答えればいいのかわからず、顔を見続けることもできず、那美は俯いた。
「相手が赤髪の巫女だからと、簡単に諦めてはいけないと思いました。実は、巫女様に赤髪を結ってもらったとき、俺は巫女様のことを心に強く想ってしまったんです」
 那美の中で、なぜこのような状況になったのか、ということの答えが出た。左之助は香代子のことを想わなかった。想っていたらこの場に来るはずがない。この場に来たのは、自分のことを好きでいてくれて、それで、赤髪を結ったとき、自分のことを想ったから。
 この事実は那美にとって嬉しくもあり、悲しいことでもあった。
「不躾なことは重々承知しています。ですが赤髪の力が強すぎて、俺は自分の気持ちに歯止めがかけられない。赤髪を解くことも考えました。でも、この強い想いを失いたくなくて、自分では解くことができません。だから──」
 左之助はためらうことなく祭壇に近づき、那美の正面に立った。那美は何をされるのかと考えを巡らせた。このまま抱きしめられるのかと思った。このまま、ここから連れだされてしまうのかと思った。
 どちらであっても、何であっても、そのとき那美は、赤髪の巫女であることを完全に忘れて、左之助に触れられたいと強く望んだ。
 左之助は、那美の目の前に左手の小指を差しだした。
「だから、巫女様の手で、これを解いてください」
 くっ、と、那美は息を呑んだ。期待していたこととは全く違い、しかもそれは「この想いを終わらせたい」ということだったので、那美は動揺して胸が苦しくなり、気を失ってしまうそうになった。目の前が白くなりかけた。
「巫女様に解いてもらえば、俺は諦められます。どうか、解いてやってください」
 那美の意識は繋がり続けた。左之助を見て、小指の赤髪に目をやった。垂れ下がっている赤髪の先端に指を伸ばし、摘む。それを引いてしまえばいい。
 那美はもう一度左之助を見た。毅然(きぜん)とした顔つきだったが、目の奥で怯えていることを、那美は察した。
 左之助の指を見て──那美は、髪の先端から指を離した。そのまま、左之助の手を取った。
「──巫女様?」
 那美はぎゅっと手を握った。温かい。左之助のぬくもりが、心に沁みるようだった。
 ふいに那美は目頭に熱いものを感じた。視界がぼやけてしまい、頬を何かが伝った。
 那美の表情を見るや、左之助は動揺した。
「どうして巫女様が、涙を流しているのですか?」
 溜まって溢れた涙が次々と零れ落ちる。左之助は更にぎゅっと、那美の手を握った。それは一緒に、那美の心も締め付けた。
 那美は顔を上げ、左之助の目を見て、詰まらせていた言葉を押しだした。
「左之助様のことが、好きだから」
 笑みを浮かべてそう言った。
 そこにいたのは神聖な巫女ではなく、恋心で涙を流し、嬉しさのあまり笑みを零す、極純粋な少女だった。

 那美は左之助の赤髪を解かなかった。左之助も、もう赤髪を解こうとは思わなかった。そうして、二人は時間の許す限り、那美の社で会った。
 左之助は毎日那美の元へやってきた。いつしか左之助は巫女を「那美」を呼ぶようになり、那美も「左之助」と呼んでいた。那美は左之助がいるときだけ、巫女という立場を忘れられて、恋人を想う少女になった。
 左之助の想いは相当なものだった。赤髪の力が想いに拍車をかけていたのだから当然、那美ともっと深い関係になることを望んだ。しかし、それはどうしても那美の心が歯止めをかけた。父の言葉が忘れられなかった。
 左之助は那美のためにと我慢をしていたが、長く持たなかった。赤髪の力が急速に焦燥感を募らせていた。あるとき、左之助は那美を唐突に抱きしめて鬱憤を吐きだした。
「もう耐えられない、那美の全てが欲しい。俺のこのどうしようもなく歯がゆくて辛い気持ち、那美にはわからないだろ?」
「わかります」
「いや、わからない。赤髪を結っていない那美には、想像をしたって俺の想いに行き着けない。苦しくて仕方ないんだ。ただ抱きしめるだけじゃ足りなさ過ぎる。口付けをしたって──」
 左之助は那美に口付けを交わす。熱く、深く、強く。
「どれだけの口付けをしたって、満たされはしない。那美を絞め殺したくなるぐらい──」
 左之助は抱擁を強める。那美は息苦しくなったが、声を出さずに耐えた。
「想いは膨らんでいるんだよ。このまま満たされなければ、俺は狂ってしまう。どうしても俺も拒むなら、いっそ赤髪を解いてしまってほしい」
「どうして左之助は、私を無理に襲わないのですか?」
 左之助は抱擁を少しだけ弱めた。
「那美のことを愛してるからに決まってるじゃないか……。俺は力づくで一方的に襲いたいわけじゃない。お互いが心から望む形で、愛を交わしたいだけなんだ」
 左之助と同じ気持ちまで行き着きたいと、那美はずっと思っていた。赤髪を左之助に結ってもらえばいいのだが、そうすると恐らく、何もかもに抑制が利かなくなり、全てをぶち壊してしまうだろう。先行きを考えてしまうと、那美にとって自分に赤髪を結うということは、越えてはならぬ一線だった。
 左之助は那美から離れた。そうして、左手を差しだした。
「俺が正気を保っているうちに、もう解いてほしい。やはり、俺たちは結ばれない運命だったんだ。巫女様と位の低いただの農民風情が、こんなふうになること自体、間違いだったんだ」
 那美の目の前には、赤髪の結われた小指。
「もう解放してほしい。実は明日、香代子との婚姻の儀が執り行われるんだ」
 那美の心の支柱が一つ、抜けた。たったそれだけで那美は倒壊しそうになった。そんな話は全く知らされていなかった。宮司も左之助も、那美にそれを伝えてはいなかった。
「こんなものが結われていたら、俺は香代子との婚姻の儀に臨めない。これを解いても想いは残るんだろうが、俺は那美を忘れるよう、努力するよ」
 それは、左之助にとって本心ではなく、賭けのようなものだった。結われた赤髪の力による発想だったのかもしれない。どの道、決着をつけなければならなかったので、もし本当に那美が赤髪を解いてしまうのなら、諦めようと腹を括っていた。そうして、指を差しだしたまま、左之助は目を閉じた。もし赤髪を解かれる瞬間を見ていたら、きっと反抗してしまうから。
 左之助にとって、目を閉じている間は胸の中が恐怖で掻き乱されていた。解かれれば那美への激しい愛が途切れてしまい、那美を忘れてしまわねばならない。那美の拒絶を受け入れなければならない。
 長い沈黙を経て、温かな手が左之助の手をぎゅっと握った。その手を裏返され、左之助が瞼を開くと、手には赤髪が乗せられていた。
「私の指にこれを結ってください」
「それは──」
「いいから、結ってください。私の気が変わらないうちに。左之助はそれを望んでいるのでしょ?」
「俺が望んでるから、結わせるのか?」
 那美は首を振った。
「私も望んでいるから、結ってほしい」
 那美は左手の小指を左之助に差しだす。左之助は、那美の小指に赤髪を回した。
「ただし」
 一つ結びをする手前、那美が言った。
「私と共に地獄へ落ちる覚悟はできていますか?」
 左之助はなんのためらいも見せず、微笑んだ。
「那美と一緒ならどこへだって行くよ」
 左之助は、当にそんな覚悟ができていた。自由に愛し合えないことを苦しんできたのだろう。それは那美が想像もつかないほどに。
 那美は弱かった自分に憤った。もっと早くこうしてしまえば良かったと思った。想いが満たされず、ずっと苦しんできたのだとしたら、左之助にとって赤髪は呪いに過ぎなかっただろう。
 小指が左之助の手によって結われていくのを見て、那美は、自分も呪いにかけられてしまうようだと思った。
 呪われたその力で、壊れるほど左之助を愛したいと望んだ。

 結び終えて少し経つと、那美の心境に劇的な変化が起こった。どうして今まで巫女などというくだらない義務に縛られていたのだろうと、自嘲した。一刻も早くどこか遠くへ行ってしまいたいと、左之助に告げた。当然左之助はそれを受けた。
 二人は社を飛びだした。
 里に下りると、左之助の家に寄ることもなく森を突っ切って逃げた。何の準備もない無謀な逃走だが、左之助は追っ手を心配して街道へは行かなかった。
 二人は強く手を繋ぎ合い、晩まで森を進み続けた。月が見え隠れする、雲行きの怪しい天候だったが、二人の心はかつてないほどに晴れやかだった。ようやく手に入れた自由が、全ての重荷を取り払い、何もかもを軽くしてくれた気がした。
 途中、ぽつんと佇む小屋を見つけた。藁屋根で、今は使われていないのか、中には何もなかった。寝具にできるようなものもなかったが、今の二人には関係なかった。愛し合える場所があるだけで充分だった。
 一睡もすることなく、二人はお互いの肉体を求め合った。

 翌日の明け方、起きてすぐに、二人は森を進みだした。
 その最中、那美は違和感を覚えた。急に全てが怖くなり、強烈な不安に駆られた。
 那美は左之助の手を振りほどき、ピタリと止まった。
「那美、どうした?」
 那美は左手の小指をじっと見ていた。
「赤髪が、ない」
 左之助が近寄って確認すると、小指から赤髪がなくなっていた。
「赤髪がないことなど、どうだっていいの──私、なんてことをしてしまったんだろう──社を飛びだして、巫女という立場を捨てて──」
 那美は慌てふためき、取り乱していた。
 そもそも簡単には解けないのに、なぜ赤髪は那美の指からなくなったのか。縛り方が緩かったのかもしれない、と左之助は考えた。左之助は、どちらかというと不器用な方だったので、どこかで解けて落ちたのかもしれない。
「社に戻らなければ──」
 引き返そうとする那美を左之助が捉まえて、その身を抱きしめた。
「俺を捨てて戻れるのか?」
 左之助は、那美の長く艶やかな赤髪を手で梳いた。すると一本髪が抜けた。既に抜けていた髪かもしれない。
 でも、でも、と、那美は依然混乱していた。そこにかつての赤髪の巫女の面影はなく、まるで迷子になった子どものようだった。
 そんな那美に、左之助は耳元で囁いた。
「那美、少しだけ目を閉じて、じっとしていてほしい」
 優しい声が、那美を僅かだけ落ち着かせた。言うとおり、目を閉じた。左之助は那美の左手の小指に、赤髪を蝶結びで結った。きつく、絶対に解けないように。
「もういいよ、目を開いて」
 瞼を開き、那美は赤髪を確認した。左之助は那美の両肩を掴み、目を見た。
「那美、もう一度訊く。俺を捨てて、社に戻れるのか?」
 那美の目は左之助を外れ、まるで何かを探すように視線をキョロキョロと動かした。
 その目が、再び左之助に合う。
「戻れるわけない」
 那美は首を振って言った。左之助は微笑みを浮かべた。

 那美は先ほど取り乱したことを謝った。謝る必要はない、と左之助は言った。
「もしまた赤髪が外れて、社に戻りたいと言っても、それは私の心の弱さが言わせているだけだから。すぐに赤髪を結ってほしい」
 左之助は、「わかっているよ」と返事をした。
 その晩も二人はお互いを求め合った。適当な場所が見つからなかったが、構わなかった。木々の(たもと)の、段差になっているところの、その下に身を潜めながら愛し合った。二人にとって場所は関係がない。誰にも邪魔されないのならそれで充分だった。寒い季節ではなかったので、凍死の心配もなかった。
 ずっと眠っていなかったので、少しは眠った。朝の木漏れ日に瞼の奥を刺激されながら目を覚まし、歩きだした。
 そろそろちゃんとした場所で休まなければならない、と左之助は思った。気づけばひどく空腹な状態だった。里を出てから何も口にしていないのだから当然。それと、急激な疲れが二人を襲っていた。
「左之助……」
 ふいに那美が立ち止まり、弱々しく言った。
「赤髪が……」
 そう言って、那美は左手を持ち上げた。赤髪が付いてなかった。
 左之助はすぐに那美の腕を掴み、手で髪を梳いた。
「逃げないよ、大丈夫……でも、怖い」
「ごめん、俺の結びが下手なせいだ」
 左之助の手には、抜けた赤髪が三本絡まった。
「左之助の赤髪は緩んでない?」
「全く緩んでないよ。那美の縛り方が上手だ」
 左之助は抜けた二本の赤髪を袖の隠しに入れ、一本を那美の小指に結った。那美がその結い方を見る限り、那美の縛り方と何も変わりはなく、しっかりと結ばれていた。
 少し経つと、那美は落ち着きを取り戻した。再び歩きだし、左之助が言った。
「もう里からだいぶ離れただろう。そろそろまともな場所で腰を休めたいな」
「うん……お腹も空いた」
 無計画に突っ走ってきたことに、左之助は後悔した。ちゃんと食料や荷物を持って、街道を馬で移動するべきだった。
「ごめんね、左之助」
「どうして?」
「もっと冷静に考えて、食料や荷物を持って社を出るべきだったと思って」
「那美は悪くない、俺こそごめん。無計画過ぎた。俺がもっとよく考えるべきだった」
 何も持っていないわけではない。左之助が少しのお金を持っていた。
「左之助も悪くないよ」
「なら、お互い悪くない」
「うん」
 那美は弱々しく笑った。

 自分たちを責めるよりも、前に進むことを考えなければならなかった。道中でこのまま息絶えてはならない。二人の幸せのために、前進しなければならない。
 手つきが不器用な左之助だが、土地勘は鋭かった。行く先に宿場町があることを知っていた。そこは物品の調達のため、馬で何度か行ったとこがあった。もちろんそのときは森を突っ切ったわけではなく、ちゃんと街道を通って行ったのだけれど。
 宿場町へは馬を一日走らせて着いた。もし街道を足で行ったのなら、三日ほどかかるかもしれない。左之助は森を突っ切る最短ルートで来たので、もうすぐ着くと睨んでいた。宿場町へ着いたら、いつも世話になっている宿へいこうと考えていた。
 左之助が推測した通り、それからすぐに賑やかな声が聞こえてきた。森を抜けると、その先に軒を連ねた宿場町があった。
「左之助、町だよ」
「ああ。宿場町だ」
「しゅくばまち?」
「要するに、旅人が腰を休めるための町だよ」
 那美がじっと町を見つめる。
「左之助は、あそこへ行ったことがあるの?」
「あるよ。里に必要な物を調達するために来たことがある。盛んに商人が行き交う宿場町だから、あそこに行けば結構なんでも揃うんだ」
「あそこが里から一番近い町なの?」
「いや、街道を行けば──町ではないけど、村があった。ひと目に付きたくないから、あんな森を突っ切ったんだ」
 那美は感心するようにうなずいた。
「里の南にある街道を行けば、半日で小さな町に着いたが、それよりも那美にはもっと広い世界を見せたくて、こっちに来た。都に行こうと考えてるんだ。那美と一緒に、都で暮らしたい」
 那美は左之助にぎゅっと縋りついた。
「私と一緒で、左之助は何の考えもなしにここまで来たのかと思っていたけど……そこまで考えてくれていたのですね」
「何の考えもなしに赤髪の巫女様を振り回せないよ。そんなことをしたら罰が当たってしまう」
 くすっと那美は笑った。
「私たち、充分罰が下るようなことをしています」
「そうだな」
「でも、そんな罰はない」
 那美は言い回しを軽くした。
「幸せになるためにここまで来たのに、それで罰が下されるのはおかしい。幸せになるな、なんて言う神様はいないはず。そうでしょ?」
「うん」
「私はね、本当は、神様の存在を信じてないの」
 左之助がふっと笑った。
「巫女様が神様を否定するなんて、面白いな」
「巫女様だから、だよ。そのせいで私にはずっと自由がなかった。神様を否定しないと、私には自由がないから」
 なるほど、と左之助は思った。
 神に供えられてない赤髪で結っても、那美には効果があった。那美の赤髪だから、想いを膨らます奇跡が起こるのかもしれない。那美だけが持つ特殊な力なのかもしれない。それは神様からのものではなく、那美の生まれ持ったものなのかもしれない。

 町の外の馬小屋を覗くと、そこには里の馬はいなかった。恐らく里の者は来ていない。
 赤髪の巫女だと知られぬよう、町に入る前に、那美の赤髪を服の中へ入れた。頭には左之助の上着を被せた。だが仰々しい巫女の装いは変えようがないので、二人は足早に左之助の知る宿へ向かった。宿主は左之助の顔を見つけると、威勢よく声をあげた。
「左之助じゃねえか! 今日はどうした? そのおなごはなんだ? お前のこれか?」
 宿主は左手の小指を立てた。そこには赤髪が結われていた。
「あ、私の髪」
「え?」と、宿主は声をあげた。左之助は慌てて言葉を被せる。
「親父さん、悪いけど、奥で話をさせてもらえないか?」
「話? お前とその子が二人きりでってことか?」
「いや、親父さんと、三人で。相談したいことがある」
 左之助が真剣な眼差しで言うので、宿主は了承して、奥の空いている部屋へと二人を通した。
 部屋に入ると、宿主は胡坐をかいた。左之助と那美は固い床に正座をした。
「相談ってのはなんだ?」
 左之助は那美に被せている上着を取った。
 すると、宿主は随分大仰に息を呑んだ。
「あ、あ、赤髪の巫女様!」
 宿主は態度を一変させて正座をした。
「これは、どういうことでしょうか?」
 宿主は戸惑った様子で、那美と左之助を交互に見た。
「お久しぶりです」
 ふいに那美が微笑みながら言った。
「わ、わたくしのことをお覚えになられていらっしゃるのですか?」
 宿主の慌て様に、左之助も那美も小さな声で笑った。
「四年ほど前に社へいらっしゃいましたね。それと、その次の年には奥様をお連れになられましたね」
「そこまで覚えていてくださったのですか? おかげ様で良いご縁に恵まれました、ありがとうございます」
 左之助は那美の記憶力に感心した。
「そんなに畏まらないでください。今や私は、社から逃げだしたただの小娘に過ぎません」
「逃げだした? どういうことで?」
「俺が説明するよ」
 左之助は、簡単に事情を説明した。

「なるほど。それは無茶なことをしたな、左之助」
 宿主の態度はすっかり戻っていた。正座を止めて、胡坐をかいていた。
「だが、想いを貫いてここまで行動を起こした心意気は素晴らしいぞ」
「俺は、那美と幸せになりたいんだ。このまま都に向かって逃げるつもりなんだが、二日間飲まず食わずで、まともに休んでもいない」
 ぎょっと宿主は驚いた。
「二日間飲まず食わずだ?」
 そう言って素早く立ち上がった。
「どうしてそれを早く言わなかった。よくもまあ、それだけ喋っていられる元気があったもんだ──」
 宿主は二人に背中を向け、部屋を出て行こうとした。
「どこへ行くんだ?」
 左之助が問いかけると、宿主は顔だけ振り向かせた。
「巫女様とお前の食いものをもってくるんだよ」
 そう言って、荒々しく部屋を出て行った。すると那美はふっと笑った。
「良いお方ですね」
「ああ」
 だからこそ、左之助はここへ来たのだった。
 宿主が握り飯を四つこさえて戻ってくると、その後ろに宿主の奥方が一緒に部屋へ入ってきた。奥方はお茶を持ってきてくれた。
 左之助はいつも奥方を見て思うことがあった。宿主はよく「別嬪の妻だ」と奥方のことを自慢しているのだが、左之助は、そうは思わなかった。決して不細工な面だというわけではない。可もなく不可もなく。別嬪という言葉は少し過剰だ、と左之助は思うのだが、いくら口を滑らせる左之助でも、それは言わなかった。
「これはこれは、赤髪の巫女様」
 盆を床に置くと、奥方は丁寧にも正座をしてお辞儀をした。
「この度はこのような庶民の宿にお立ち寄りいただき、ありがとうございます」
「親しみの持ちやすい立派な宿です。お優しい宿主様とお綺麗な奥方様がいらっしゃるおかげで、きっとこの宿に訪れた旅人たちは身も心も随分と休まることでしょう」
 宿主はどこか照れくさそうにしていた。
「巫女様にそのように言っていただけて光栄です」
「堅い挨拶はその辺にして、お二人は腹減ってんだから──ほら、とにかく食え」
 宿主が勧めてくれたので、二人はひとまず、握り飯を食べた。那美は上品に少しずつ咀嚼していったが、左之助はペロリと平らげた。
 那美が食べ終わると、左之助は口を開いた。
「こんな上手いメシまでご馳走になって、不躾なこと言うのは本当にすまないと思うのだが……実はあまりお金を持ってないんだ。できれば、安い値で一晩泊めてもらいたい。もちろん、手伝えることはなんでする」
 宿主は小さく笑い飛ばした。
「事情を聞いたときからタダで泊めてやるつもりだったさ。こっちは赤髪の巫女様のおかげで繁盛しているんだから」
「ありがとう」
 左之助は笑みを浮かべた。那美が「でも」と口を開く。
「その赤髪の巫女はいなくなってしまいます。ご迷惑をおかけして、すみません」
「迷惑だなんて」宿主は首を振った。「そんなふうに思ってはいけません。巫女様はご自分の意志を貫いただけです。二人で幸せになりたければ、このまま愛を貫いてください」
 那美の心に、左之助との愛を信じる力が更に増した気がした。
「巫女様も赤髪を結ってらっしゃるのですね」
 那美の赤髪に気づいた奥方が言った。
「はい。結って、赤髪の力を思い知りました」
「巫女様の赤髪は本当に素晴らしいものです」
 奥方が左手を持ち上げて、小指を立てた。そこには赤髪が結われていた。那美にはそれが疑問だった。宿主に赤髪が結われているのを見たときも、疑問に思っていた。
「赤髪は長くても一年半ほどで効力を失って、切れてしまうはずですが……お二人の赤髪は随分丈夫ですね」
 いえ、と奥方が答えた。
「これは半年前に宮司様がいらして、新しい赤髪に結いなおしていただいたものです」
「結いなおし?」
「ええ。わざわざ半年に一度来てくださるんですよ? 巫女様、知らないのですか?」
 那美は無言で首を振る。
「新しい赤髪を結いなおせば、神様がいつまでも幸福を呼び込んでくださるからと──初めは巫女様に結っていただかないといけないそうですが、二度目は新しい赤髪が巫女様の結った赤髪の力を引き継いでくださるので、宮司様がわざわざこの宿場町まで来てくださって、新たに結ってくださるのですよ」
 那美は小さく息を吐いた。
「お父様は欲を張る人だから、そのようなことを言ったのだと思います。わざわざ半年に一度、新しい赤髪を結いなおす必要はありません。神が幸福を呼び込んでいるわけでもありません。赤髪が切れても、それは決してお二人の縁が切れるわけでもなく、充分な想いがお互いの間に育っていれば、もう赤髪も必要ありません」
「そうだったのですか? 私はてっきり、赤髪が切れると縁も切れるものだと……」
「そんなことはありません。試しにお二人の赤髪を解いてみてはいかがでしょう? 私のお見受けするところ、お二人には充分にお互いを想う心が育っているかと思います」
 宿主が戸惑いの表情を浮かべた。
「恐ろしくて、そんなことできませんよ。赤髪を解けばたちまち不幸になるんじゃないんですか?」
「いえ、絶対になりません。私を信じてください」
 宿主と奥方はお互いを見合い、それから自分たちの小指を見た。
 二人は髪をつまみ、一緒に赤髪を解く──
「どうです? 心境に変化はありますか?」
 宿主と奥方は顔を合わせ、少しすると、宿主がふっと笑った。
「よく見ればお前、そんなに別嬪じゃねえな」
「失礼ね! アンタこそ、大した色男でもないじゃないのさ」
 奥方は宿主を叩いた。
「ごめん、ごめんよ。でもオレは、お前のその顔も、性格も、全部変わらず愛しているから」
 奥方の怒った表情が緩み、顔を赤らめた。
「人前でそんな……やだよ、アンタったら。私も、アンタの全部を変わらず愛してるよ」
 お互いに見つめあい、手を取り合った。けれど、那美と左之助に気づいて、二人はパッと手を離した。
「私たちのことはお気になさらず、繋いでいればいいのに」
 宿主は恥ずかしそうに小さく頭を下げた。
「お恥ずかしいところをお見せしました。巫女様の仰ったとおり──少しばかり妻の見え方が変わりましたが、気持ちは変わりません」
「この人のこと、嫌いになってしまったらどうしようと思っていたけれど、思い過ごしでした」
 宿主と奥方のように、赤髪に依存する者は大勢いた。那美はそのことをずっと気に病んでいた。宮司が出向いて結いなおしをしているのだとしたら、那美の想像以上に赤髪に依存している者がいるのだろう。
「お二人の想いはお二人のものです。赤髪は、相手を想う気持ちを更に強くする作用をしているだけなんです」
 なるほど、と宿主はうなずく。
「赤髪の力に頼らずとも、オレはもう充分こいつを愛してるってことか」
「そうです。お二人の愛も、お互いを想う気持ちも、もう充分に育っています」
 左之助は自分の赤髪を見た。それを解くと那美への想いがどうなるかに興味があったが、躊躇(ちゅうちょ)して解けなかった。
 左之助はお茶をすすって、「話を変えるが」と切りだす。
「那美のことは誰にも言わないでほしい。里の者や宮司様がやってくるかもしれないが、そのときは匿ってほしいんだ」
 宿主は腕組みをした。「そんなことはわかってる」
「ありがとう、親父さんは物分りがよくて助かる」
「お前さんみてぇな若造とは違うんだよ。特別にこの個室を使わせてやる。巫女様もいることだしな」
「深く気遣っていただき、本当にありがとうございます」
 那美は深々とお辞儀をした。すると、宿主が慌てて「顔を上げてください」と、態度を一変させたので、左之助は小さく笑った。

 左之助は一人で宿を出た。那美はついていきたいと言ったが、赤髪の巫女だと知られれば騒ぎになるので、ひとまず待たせた。
 左之助はいつも立ち寄る万屋へと行った。店主は左之助の姿を見つけると、軽く声をかけてくれた。そこで、那美のための服と頭巾(ずきん)を手に入れた。巫女の装いを変えて、頭巾を被ってしまえば、那美を連れて行動しやすくなる。
 他に、この先役立ちそうなものはないかと店の物を見ていると、ふとある物が目に留まった。左之助はそれを手に取った。
「なんだい、それが欲しいのか?」
 それは、とても小さな指輪だった。銀に不純物が混じっているのか、斑の模様が浮かび上がっていた。
「きたねえ指輪だろ? 小さすぎるし、どこの下手くそな職人が作ったのか。婚姻の儀にも使えやしねえ。旅の商人がよ、銭が足りないからって、それを置いていったんだよ。仕方ねえから銭の代わりに受け取ったが、後でおっかあに知られたらこっぴどく怒られちまった。そのうち、俺もおっかあも赤髪を結わねえとな」
 そう言って店主は笑った。
「これ、もらえないか?」
「本当に欲しいのか? 一応銀の入ったもんだし、銭の代わりに受け取ったんだから、タダってわけにはいかねえな」
 左之助は袖の隠しのものを出して、店主に見せた。
「これと交換してもらえないか?」
 それは道中、那美から取った赤髪二本だった。
「赤髪じゃねえか! それは本物か? 赤い糸じゃねえよな?」
「間違いなく本物だ。特別に赤髪の巫女様から頂いた」
「けれどそれ、巫女様が結わねえと駄目なんだろ?」
「いや、巫女様が結わなくてもちゃんと効果がある。巫女様がそう仰っていた。ほら、どうだ? 巫女様に結ってもらおうと思ったら、これっぽっちの銀では結ってもらえないぞ」
 左之助は店主を煽るように指輪を振った。
「わかった、それと交換だ。その服と頭巾もくれてやる」
 左之助は、宮司が那美を軟禁していた訳がわかったような気がした。きっと血眼になって那美を探していることだろう。
 早いうちに町を出たほうがいいのかもしれない。

 宿に戻ると、那美が赤髪をしきりに触っていた。
「那美、どうした?」
 那美は「なんでもない」と言って首を振った。
 ずっと洗っていないから、髪の汚れが気になるのかと左之助は思った。
「左之助、赤髪をきつく結いなおして。緩まって、外れてきてしまう」
 そう言って那美が自分の赤髪をいじると、輪が簡単に動いた。
 左之助は服と頭巾をその場に放って那美の傍へ近寄った。
「それで赤髪の力は感じるのか?」
「うん。感じる。大丈夫」
 だが、なぜこうも簡単に緩まってしまうのか。やはり神に供えられていない赤髪だからじゃないだろうかと、左之助は考えた。
「俺の赤髪を那美の指に結おう」
「左之助の? 左之助は結わないの?」
「結うが、俺は多分、赤髪がなくてももう大丈夫だ。そんな気がする。那美を想う強さが充分に育っているはずだ。もしかしたら、俺の赤髪の方が、力が強いのかもしれない。こっちを那美に結えば中々解けないかもしれない」
「……赤髪を交換する?」
「ああ、そうしよう。交換しても、赤髪の力はちゃんと働くか?」
「それは、やってみないとわからない」
「なら、やってみよう」
 左之助は那美に左手の小指を差しだす。那美は戸惑いながらも、左之助の赤髪を摘んだ。
 左之助は一呼吸した。赤髪の力が途切れるのは怖かったが、那美をいとおしむ気持ちを持ち続けた。
 那美が左之助の赤髪を解く──
「どう? 左之助」
 那美への気持ちは、全く揺らぎはしない。だが、底に沈んでいた不安感がゆっくり浮上してくるのを感じた。左之助は、里に残っている両親のことが心配になった。
「大丈夫。なんともない」
 左之助は強がった。
 手早くお互いの赤髪を交換した。お互いがお互いの指にきつく縛った。
「左之助の赤髪が、私の指に結われてる」
「心境の変化はあるか?」
「ううん」と那美は首を振り、「あ」と声をあげた。
「心なしか、さっきよりも左之助への想いが強まった気がする」
 左之助も、両親への心配は薄れて、那美を守りたい意志が強くなった気がした。
 左之助は袖の隠しから指輪を取りだす。
「それはなに?」
「万屋で手に入れた。二度と那美の赤髪が外れぬようにと思って」
 左之助は那美の手を取り、左手の小指に──結われている赤髪に被せるように、指輪をはめた。那美の小指にぴったりとはまった。
「まるで那美のためにあったみたいだな」
 那美は顔元に指を寄せた。じっと見入っていた。
「あまり良い代物ではないが、それを身に着けていれば、もう赤髪が緩むこともあるまい」
 那美は指の向こうの左之助に視線を移して、笑みを零した。傍に寄って、口付けをした。
「うれしい。ありがとう」
 左之助は那美を抱きしめた。
「永遠に那美を愛するよ。どんなことがあっても、俺は那美の傍にいる。那美を守る」
 那美は更に身を寄せ、熱く、深く、強い口付けを交わした。

 今すぐ出て行ったほうが良いのかもしれないが、休めるときに休むことも大事だった。仮に里の追っ手がやってきても、宿主が匿うと言ったのだし──それを信じて、二人は宿に一泊することにした。そうして、日も出ぬうちに宿場町を出ようと決めた。
 晩まで追っ手がやってくることはなかった。夜のうちに街道を行くのは少々危険なので、寝ている間にやってくるということは恐らくない。
 その晩も、二人は静かに、それでいて激しく愛し合った。
 営みを終えると、二人寄り添いながら、左之助が那美に言った。
「そういえば、どうして宿主と奥方の赤髪を解かせたんだ? あのまま赤髪を結っていたほうが幸せだったかもしれない」
 那美はすぐに返答をせず、言葉を選んだ。やがて、静けさに溶け込むような声で言った。
「真実から目を逸らしているのは、本当の愛じゃないから」
 ふっと左之助が笑った。
「それは遠まわしに奥方のことを悪く言ってるのか?」
「違う、そうじゃない。お互いがお互いのことをちゃんと受け入れた上で想い合うほうが、もっと相手を愛せるんじゃないかと思って。宿主様は奥様に出会う前から赤髪を結っていたから。宿主様の目だけで、しっかりと奥様を見てほしいと思ったの」
 那美の思慮の深さに、左之助は感心した。
「私と左之助は、赤髪を結う前に好きになっていたから、いいの」
「赤髪の力に支えられながら、真実の愛に向かってる」
「うん」
「二人で幸せになろう」
 那美はうなずき、左之助に身を寄せ、目を瞑った。

 翌日。
 日も出ぬうちから、慌ただしい音が宿場町を騒然とさせていた。左之助が先に目を覚まし、すぐに何の騒ぎか気づいて、那美を起こした。それからすぐ、宿主が部屋に入ってきた。
「どうやらお前たちを匿えそうもない。宮司様と里の者が一軒一軒訪ね回って、隅々まで調べている。今のうち宿を出て行け、逃げるならまだ間に合う」
 やはりもっと早く出て行くべきだったと、左之助は後悔した。
 昨日のうちに那美は服を変えていた。赤髪を見られぬよう頭巾を被り、二人は裏口から宿を出た。
「左之助、達者でな」
「親父さんも達者で」
「ああ」と宿主は返事をし、那美を向いた。
「巫女様と左之助のご幸運を、お祈りしております」
「ありがとうございます。縁の神が、宿主様と奥様の相思相愛をいつまでも守ってくださるように」
 那美が丁寧に手を合わせ、祈った。
「さあ、早く行こう」
 左之助は那美の手を掴み、走りだす。さようなら、と那美が宿主に手を振った。
 建物の間の狭い道を進み、街道に向かった。空は薄明るく、左之助たちが進むほうは、人の気配がしない。宮司たちはまだ来たばかりのようだった。
 里とは逆方向の出入り口に誰もいないと踏んだ左之助は、一気に走った。
 宿場町を脱出して、街道に入る。
「いたぞ、あそこだ!」
 外には馬が二頭いた。逆側を固められていた。
 全くもって、頭巾を被せたことや服を変えた意味はなかった。町はまだ活動を始めていないのに、人が走っている姿をみれば、誰だって怪しんで察することができるだろう。
 二人は足を速めた。しかし、馬の脚力から逃れられるわけもなく、いとも容易く捕まってしまった。



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