4 二人は抵抗を示したが、宮司の命により、左之助がその場で無惨に殴りつけられた。耐え兼ねた那美が大人しく里へ帰ると言うと、左之助への暴行は左之助が気絶するまでに留まった。 日が暮れる前には里に着いた。左之助は気絶したまま、里の懲罰房に入れられた。那美は社の蔵に閉じ込められた。 左之助が気絶している間に、香代子が房に訪れ、赤髪を解いた。香代子は、左之助が巫女に赤髪を結ってもらったとき、巫女を想ったからこうなったのだと推測していた。 宮司も、那美の小指にあるものに気づいた。赤髪の力がこの結果に招いたのだろうと、那美の指輪も赤髪も外そうとしたが、那美は必死で抵抗した。 「それを外さぬのなら、左之助を処刑する」 そう脅すと、ついに那美は泣きだした。 「お父様は非道すぎる──神に仕える者がすることとは思えません! お父様は、贋者の宮司です!」 そうやって宮司を罵倒した。 「そんなことをしたら、もう誰にも赤髪を結わないし、私も左之助と共に死ぬから」 更に那美がそう言うと、憤慨した宮司は那美をはたいた。 「立派な成人の巫女になったと思ったが、お前こそ贋者の巫女だ。考えを改めるまで、ずっと蔵の中にいろ!」 強く言い捨てて、宮司は蔵を出て行った。蔵には錠が掛けられた。 日が落ちると、蔵の中では何も見えなくなった。那美は隅っこでうずくまり、泣きながら小指に触れていた。小指にある、指輪と赤髪の先端にずっと触れていた。 日が昇り、蔵の戸が開いた。宮司だった。 「どうだ那美、少しは反省したか?」 那美は不敵に鼻で笑った。 「お父様こそ、反省しましたか?」 宮司は顔を強張らせた。 「ワタシが反省することなどない。那美が過ちを犯したのだぞ。全く、何もわかっていない。成人になっても、その心はまだ子どもだ」 那美は声に出して笑った。 「子どもなのは、アンタの方だよ」 宮司は耳を疑った。眉を顰めた。威圧的に那美の前まで近づいた。 「父に向かって──宮司であるワタシに向かって、その無礼な言葉はなんだ! どこでそのような野蛮な言葉遣いを覚えた?」 「お父様こそ、子どものようにそんな剣幕で捲くし立てて野蛮──」 那美が言い切る前に宮司の手が、パンッ、と那美をぶった。一度ではない。火がついたように、何度も那美をぶった。それを止めたのは物音に気づいた母だった。 「反省するまで、絶対にこの蔵から出さんからな!」 宮司がそう言い、母と共に蔵を去っていった。 那美は、笑った。本当は泣きたかったのだが、涙が出なかったから笑った。 やがて笑声は増し、蔵の中に高らかと那美の声が響いた。 それに飽きると、那美は左之助の名を呼んだ。 何度も何度も、左之助を呼んだ。 食事は母が持ってきた。その度に宮司に従うよう説得をしてきたが、「反省はしない」と言い、食事も摂らなかった。 宮司が来ると、もう那美は口を開かなかった。宮司は那美をぶつことはなかったが、何も返答しない那美に喋りかけているうちに、壁に喋っているような気になっていた。そこに那美はいるのだが、まるでいないようだった。 誰もいないとき、那美は赤髪と指輪に触れながら左之助の名を呼び続けた。きっと助けに来てくれると信じていた。 だが、捕まって四日が経ったある朝、宮司が言った。 「左之助は自ら里を出て行った。もう戻ってはこないだろう」 そのときようやく、那美は口を開いた。 「ウソよ、私を置いて出て行くはずがない──」 「いや、出て行ったんだ。お前が一日でも早く左之助を忘れ、前へ進めるようにと、里を離れた。全てはお前のためだ」 「違う、そんなの私のためじゃない! そもそも赤髪を結っている左之助が、そんなことを言うはずがない!」 「赤髪? 左之助の指には赤髪など結われてはおらんかったぞ」 宮司はそう言ったあと、「ああ」と、思いだしたように言った。 「婚姻するはずだった庄屋の娘が、左之助から外したと言っていたな」 那美は宮司が取ったのかと考えていたが、そうではないらしい。 「左之助は一人で出て行ったのですか?」 「そうだ」 「香代子様にも赤髪を結いました。本来はお二人の縁を結ぶために結ったものです。香代子様の赤髪はどうなったのですか?」 「赤髪が不幸を呼んだ、と庄屋が赤髪を解いてワタシに突き返してきた。那美のせいで、庄屋との信頼を失った」 赤髪は解かれて、左之助は一人で出て行った。赤髪が解かれても、想いは消えないはず。左之助は那美への想いを抱いたまま、里を出て行った。 自分に対する永遠の誓いは、赤髪が解かれただけで弱まってしまうほどのものだったのかと、那美は訝った。宮司のことだから、脅しをかけて里から追いだしたに違いない。 もしかすると、今晩夜の闇に乗じて、左之助が来てくれるかもしれない。 那美は眠らずに夜を明かした。左之助は、来なかった。 宮司が様子を見に来たとき、那美は訊ねた。 「左之助は、来ていませんか?」 口調は弱々しかった。 「来てはおらん。来るはずがない。里を出て行ったのだから」 二人で幸せになろう、と確かに約束したはず。左之助の言葉の全てを、赤髪が言わせていたはずがない。赤髪は相手を想う力を助長するだけなのだから。 ふと、那美はある結論に行き着いた。 「もしかして、お父様は左之助を殺めたの?」 宮司は目を見開いた──が、それはほんの一瞬。宮司は、目を伏せた。 「ワタシがそんなことをするはずがない。……庄屋が左之助を処刑した」 「──処刑?」 「庄屋の命により、左之助は生き埋めの刑に処された」 那美は、言葉を失った。 「ワタシは止めたのだが、庄屋の娘が随分と心に深い傷を負ったようでな。庄屋は怒り狂っておった。里の追放を左之助が拒んだのだ。そうして、左之助は庄屋に歯向かった。暴れまわる左之助を気絶させ、このまま生かしておけば、自分たちの身が危険だと判断し、左之助は死刑となったのだ」 当に枯れた那美の水分が、涙となって絞り出た。那美は震えた。 「そんなの、非道すぎる……あまりにも惨すぎる……勝手すぎる」 「元は左之助が悪いのだよ。婚姻を約束していた身でありながら、赤髪の巫女であるお前に手をだした。それだけでも万死に値するところを、ワタシも庄屋も里からの追放で許したのだ。それを、左之助は不服だと申し立て、暴れた。危険な存在を完全に排除するのが、里の掟だ」 那美は自分を責めた。行く先が地獄だとわかっていながら、左之助に赤髪を結わせた。そのせいで左之助は死んでしまった。 「左之助のことはもう忘れなさい。那美には、神から授かった力がある。人々に幸福を結びつけるという大義がある。赤髪の巫女の業に戻り、皆を幸せにしていけば、那美の罪は縁の神が許してくださるだろう」 那美は、激しい憎悪を抱いた。だが、もうどうすることもできないと悟り、涙が零れ落ちた。 髪が赤くなければ、巫女として生まれていなければ、どれだけ楽だっただろうか。里の者としてこの世に生を受けていれば、どれだけ幸せだっただろうか。自分を犠牲にして他人を幸せにしてきたのに、自分には何も返ってはこない。自分の幸せのために生きることは許されない、と神が言っている? ……いや、縁の神など、いない。全ては、赤髪の力を持ってしまった境遇のせいだ。 赤髪など、なくなってしまえばいい。 那美はそう願った。 翌日。 宮司の社には大勢の人がやってきた。全員、赤髪を結っていたはずの人だった。 皆は口を揃えて宮司に言った。 「突然赤髪が切れてしまったのですが、これはどういうことですか?」 それによって不幸が訪れたわけではないのだが、皆、突然の出来事に不安になって宮司の社にやって来たのだった。原因のわからない宮司は、奉納金を受け取らずに赤髪を結うしかなかった。赤髪の巫女に結ってもらいたいと言う者もいたが、「巫女は今体調を悪くしている」と言って宮司が全員に結った。 人の波が引くと、宮司は那美のいる蔵へ入った。 「赤髪が突然切れたと言って、大勢が社にやってきたぞ。これはどういうことだ?」 闇に溶け込むように、蔵の隅でうずくまりながら、那美は言った。 「そんなことが起きたのですね」 「何か知っているのか?」 「知りません。もしかしたら、赤髪の力が終わったのかもしれません」 「どういうことだ?」 宮司は那美に近寄った。那美の姿をはっきり視認すると、宮司は大きく息を呑みこんだ。 「その頭はどうした!」 那美は不気味に笑った。 那美の周りには赤髪が広がっていて、那美の頭には、髪が一本も残っていなかった。 縁の神がお怒りになっているのだと、宮司は必死になって祈祷した。 次の日、宮司に赤髪を結われた者たちが再び社を訪れた。皆は口を揃えて、「以前のような力を感じられない」と言った。 「赤髪の巫女にどうしても結いなおしをして頂きたい」と言う者も大勢いた。那美の髪が全て抜け落ちたことを皆が知ればどうなるか。宮司は、たちまち社の信頼も自分の地位も失うだろうと恐ろしくなった。築き上げたものを失くすことを恐れた。 「縁の神は今、皆のために力を使いすぎてお休みになられている。神の力が戻り次第、幸福も一斉に戻ってくるので、引き続き赤髪を結っておくように」 そう言って、宮司はなんとかその場を凌いだ。 宮司は那美を問い詰めた。こんなことになったのは、全て那美のせいだと。神聖な巫女の身でありながら、左之助と社を離れたことが原因だと。 那美は何も答えなかった。抜け殻のように、ただ静かに横たわっていた。今まで母が少しばかり那美に食べ物を食べさせていたが、もうそれすら口にしなくなった。 那美は、死ぬ気でいた。左之助と同じ場所へ行きたいと望んだ。 母はそんな那美を見て耐えられなかった。宮司に詰め寄り、もう那美を出すようにと言った。さすがの宮司も、娘が衰弱していくのを見ているのは痛々しい思いだった。ついに、蔵から出してやろうと決めた。 「お前を許したわけではないからな」 そう言って、宮司は扉を解放した。 しかし、那美は蔵から出なかった。出ようとしなかった。開けっ放しの戸の向こうをぼんやり見つめるだけだった。外に出てきなさい、と宮司がいくら言っても那美は動かなかった。 その状態が幾日か過ぎて、宮司は痺れを切らした。 「どうして蔵を出ない、どうして何も口にしない。このまま死ぬ気か?」 那美は何も答えない。 困り果てた宮司は、ふと指のものに気づいた。小指にはまだ指輪と赤髪がついていた。宮司は、指輪と赤髪をくっつけていることが那美に呪いをかけているのかと考えた。 宮司が那美に近寄り、指輪に触れる。 「触らないで!」 横たわりながら、那美は大きな声をあげて身を振った。 「触らないで触らないで触らないで触らないでええええええ!」 乾ききった、掠れた声で那美は叫んだ。 宮司は怯んだが、それでも那美を押さえつけた。那美はぎゃあぎゃあと悲鳴を上げ、宮司は那美の指輪を掴んだ。那美は必死で身体を揺するも、グッと指輪を引っ張られた。 「外れん──」 指輪は、外れなかった。まるで指にくっついているかのように、小指から全く動かなかった。 「那美、何をした?」 那美は暴れて、金切り声をあげ続ける。 いくら指輪を引っ張っても、やはり外れなかった。 諦めた宮司は那美を放すと、那美は涙を流さず奇妙な泣き声だけをあげた。その姿が異様で、かつての赤髪の巫女──もとい、人間としての姿も失いつつあった。宮司は気味が悪くなり、蔵から逃げ出た。 泣き声をあげながら、那美は指輪を触った。 なせ外れないのか。 左之助が、死ぬなと言っているような気がした。 5 宮司は蔵に訪れなくなった。全てを母に任せた。 母は、献身的に那美の傍に寄り添った。指輪が外れなかったこともあって、那美は少しずつ生きる希望を持ち始めた。少しずつ、食事も摂るようになった。 一ヶ月が経った頃には、すっかり顔つやもよくなり、完全に生気を取り戻していた。だが、いくつか異変が起きていた。一つは、食事の量も戻って健康的な身体つきになったにも関わらず、体調を悪くすることがあった。その理由を、那美は察していた。 もう一つは、髪が生えたということ。これは異変とは言わないのかもしれないが、宮司が事実を知って、愕然とした。 生えたのは赤髪ではなく、黒髪だった。 那美の赤髪を当てにしていた宮司はひどく当惑した。力が戻ることを信じて赤髪を付け続けていた者たちには、結局何も起こることがなく、いつしか皆が赤髪を解いた。宮司に文句を言う者もいたが、そのうち誰も社に来なくなった。 宮司は狂ったように祈祷を続けた。来る日も来る日も、神に祈りを捧げ続けた。 蔵から出て、家で生活を送るようになった那美は、そんな父の姿を知って哀れんだ。 ある日、ずっと何の会話もしなかった宮司が突然、那美の腕を掴まえた。何も言わずに腕を引くと、那美は「何をするの」と引っ張り返した。 「黙ってついてきなさい」 抑揚のない声で宮司は言った。きっと、自分を祭壇に連れて行って、祈祷でもするのかと那美は思った。 が、違った。宮司は那美を蔵に連れ込んだ。そこで、宮司はおもむろに那美の左手を掴み、小指の指輪に手を掛けた。 「止めて、お父様──」 「これを神に捧げなければならない、そうすればお前に赤髪が戻るのだ」 宮司の力の前に、那美はどうすることもできず、指輪を掴まれた。だが、やはり指輪を外すことはできなかった。 「やはり外れぬか。これはきっと左之助が呪いをかけていったのだな」 それだけ言って、宮司は蔵を出て行った。錠をかける音が聞こえた。 また閉じ込められてしまった、と那美は思った。しかし、それだけではなかった。 宮司はすぐに戻ってきた。 右手には、刃物を握って。 「お父様、そんなものでどうする気……」 宮司の顔には感情がこもっていなかった。 身の危険を感じて那美は抵抗を示したが、宮司に捕まり、刃を突き立てられた。 「指輪を外しなさい」 外したくない、と那美は思った。だが、外さなければ宮司は指を切り落とすつもりなのだろう。 いつか未練を断ち切らなければならない。もういない人に、いつまでも執着していてはいけない。 那美は自ら指輪を掴み、指から引き抜こうと力を入れた。 だが、指輪は抜けず、皮膚が引っ張られるだけだった。 「抜けない──」 焦って引き抜こうとするも、指が痛いだけで全く抜ける気配はなかった。 「やはり外れぬか。では仕方ないな」 宮司は那美の身体を掴み、地に這いつくばらせる。那美はとっさに身体を丸めた。 「やめてお父様!」 「那美、お前はまだ罪を償っていないのだよ。だから黒髪が生えてきたのだ」 那美がいくらもがいても、宮司が力任せに那美を抑えつけていたので、逃れられなかった。本当はもっと抵抗を示したかったのだが、あまり抵抗すると、体重をかけて身体に乗られてしまいそうな気がしたので、激しくもがけなかった。 宮司に左手を掴まれ、地につけられる。那美はグッと拳を握った。 「手首を切り落とされたいのか?」 「こんなの人間のすることじゃない! お父様は間違ってる、頭がおかしくなってるのよ!」 「ワタシは何もおかしくはない。おかしいのはこの汚らわしい指輪だ。なぜ抜けない? これは、左之助が指輪に呪いをかけたからだ。そうだろう?」 今の宮司には聞く耳がない。それを悟った那美は、母を呼んだ。母に助けを求めた。 「これは母も同意済みだ。もし指輪が抜けなければ、指を切り落とすと」 ピタッ、と、那美は止まった。信じていた母親にも裏切られた。 那美は、全身の力が抜け、抵抗をする気力を失くした。 「それでいい」 そう言って、宮司は那美の左手を広げた。 指を切り落とされるときは全身に力が宿って悲鳴を上げた。 指輪は、血に染まった。 入れ替わりに母が蔵に入ってきた。那美はされるがままに止血を受け、それが終わると蔵に錠がかけられた。那美が逃げださないために、という理由で。 切り落とした小指から指輪を引き抜こうとしたが、無理だった。指と指輪が一体になっているようだった。 仕方なく、宮司は小指を『鎮物』と表記した木箱に入れ、ご神木の下に埋めた。そうして、神に祈りを捧げた。 「巫女は罪を償いました。どうか、もう一度巫女に赤髪をお授けください」 那美に赤髪が生えることはなかった。 宮司は那美と接触しなかったが、母が蔵に食べ物を運んでいたので、宮司は母に、「赤髪は生えたか?」といつも訊いていた。幾日が過ぎても、黒髪が更に伸びるだけだった。 以前の那美なら、母に裏切られ、指を切り落としてまで指輪を奪うという残虐な行為に深く絶望していただろう。精神は自己回復など到底できないほどに傷ついて、食事を摂らずに死んでいったかもしれない。 しかし、今の那美は違った。日が経つごとに、那美が何となく察していたことは、事実だと感じられるようになっていった。それは何よりも生きる希望をくれた。 生きなければならない。絶対に死なない、と、那美は誓った。 食事は充分に摂った。蔵の中で、しっかりと眠った。 那美は、隙をみて逃げだそうと密かに計画していた。 だがその計画は、那美の母によって崩された。同じ女性だからなのかもしれない。 母は、那美が妊娠していることに気がついた。 母はそのことを宮司に伝えた。 「那美は誰とも交わってはおらぬぞ。神の子を宿したのか?」 そうではないことも、母はわかっていた。 「ええ、神の子です。那美の罪を赦し、縁結びの神が子をお与えになったのでしょう」 母はそう言った。それが娘にしてやれる最大の手助けだったから。 宮司はすぐさま蔵に出向き、那美に言った。 「神の子を宿したというのは本当か?」 那美は一瞬戸惑ったが、後ろで母が合図をしたのを見て察した。 「はい、お父様。お父様の祈りが神に通じ、私に子を宿しました」 「素晴らしい」 宮司は那美に近寄る。那美は身を引きたくなったが、その拒絶心は堪えた。宮司が那美のお腹に触れる。 「神の息吹がここに集約されているのだな」 「ええ」と那美は言う。 「神の子を身ごもる母がこんな場所におってはならん」 宮司は那美の手を取り、立ち上がらせた。そうして、蔵から那美を出した。 このとき那美は、つくづく無能で身勝手な宮司の態度に呆れていた。 宮司は那美とお腹の子を神聖視し、大切に扱った。日毎にお腹が大きくなることに歓喜し、優しくなった。逃げるつもりでいた那美だったが、次第にその気も薄れ、子を守る環境に安堵していった。 6 半年ほどが経ち、那美の腹部はふくらみが目立つようになっていた。そんな頃、社に訪問者がやってきた。 左之助と婚姻するはずだった、香代子だった。 香代子は那美をひと気のない場所へと連れだして、言った。 「父から色々と聞きました。本当に黒髪になってしまったのですね。父は宮司様から聞いたのですが、巫女様が神の子を宿したと言っておりました。巫女様もそうお考えなのですか?」 那美は首を振った。直感で、香代子は真実を知っているとわかった。 「やはり、左之助の……」 中途半端に香代子は言い、那美は「ええ」と返事をした。 「このことは、誰にも言わないでください」 「言いません、ご安心下さい」 香代子なら言ってしまうのではないかと、那美は思った。 「香代子様は、私のことを恨んでいるのではないのですか?」 いえ、とすぐに否定が返された。 「事実を知ったときは巫女様のことも恨みました。でも、今は違います。今は、あのときのことを振り返ると、真実を簡素に解釈することができます。左之助が巫女様を想っていただけのこと。身分を利用した婚姻の取り決めだったので、左之助にとって私との婚姻は無理やりで、そこに私への想いがなかっただけのことです」 どう返せばいいのかわからず、那美はふっと目を伏せた。 「それに、左之助と婚姻しなくてよかったです。町で左之助よりも良い人と出会い、婿に来ていただきましたから」 那美は視線を香代子に向けた。 「御婚姻なされたのですか?」 「はい。宮司様から聞いてないのですか?」 那美は首を振った。 「お父様は私に何も教えてくださらないから……」 「そうですか……。良い婿をもらったので、私は巫女様のことなど全く恨んではいません。ただ、一つだけ疑問に思うことがあります」 「疑問?」 「無礼なことは承知しておりますが、はっきりと言わせて頂きます」 左之助一人に罪を背負わせ、生き埋めの刑にしてしまったことを責められるのかと、那美は推測した。 「──どうして左之助を追いだしてしまったのですか?」 考えとは全く違って、那美は面食らい、唖然とした。 「巫女様は、左之助が里を離れればより幸せになれると仰いました。それは本当に神のお告げだったのですか? お告げだとしても、それを伝えられた左之助はどんなに胸を痛めるか、想像できなかったのですか? そもそも巫女様は、左之助を心から愛していたのではないですか?」 捲くし立てて並べられた言葉はどれ一つも、那美には意味を繋げられなかった。 「……左之助は、生き埋めにされたのでは?」 「生き埋め?」 「庄屋様が生き埋めの刑に処したと、お父様が言っていました」 「そんな物騒な刑、里にはありません。父は絶対にそんなことをしない。確かに父は、婚姻の儀を放って里から逃げだしたことを怒っていました。でも、左之助は事情を誠心誠意父に話し、謝罪をしました。それで父は左之助を許しました。ですが、宮司様が──赤髪の巫女様のお告げにより、左之助に里を離れるよう命じました。里の者にとって、巫女様の仰ることは絶対です」 那美は、赤髪の巫女としての地位と権力を知らなかった。どれほど崇められていたかを理解していなかった。どれだけ人々から信頼されていたかも、全く分かっていなかった。それはそもそも、那美がそんなことに興味を示さなかったからだった。 「私は左之助を追いだしてなどいません──お父様に、蔵に閉じ込められて、そこでずっと左之助を想っていました」 「お身体を悪くしていたのではないのですか?」 「悪くしていません。私は、蔵の中で何もできませんでした。お父様に左之助は死んだといわれ、絶望していました」 「ということは、宮司様の騙されていたのですね……」 そういうことになる。 宮司は嘘をつき、何もかもを諦めさせようとした。 那美は香代子と別れたあと、その足で本殿に立ち入った。宮司は祈祷をしていた。 「お父様、どうして左之助が死んだなどという嘘をついたのですか?」 宮司は祈祷を止め、那美を振り向いた。 「里の者から聞きました。お父様は、私の──神のお告げのせいにして、左之助を里から追いだし、私に嘘をついた」 「それは違う。那美のためを思って──」 「止めて!」 那美が大声をあげ、宮司は黙った。 「全ては自分自身のためなのに、私を盾にするのは止めて。お父様は娘と神様にしか責任を擦り付けられない、最低な人です……」 那美は、哀れむような目を宮司に向けた。宮司の胸には、那美の言葉と態度が突き刺さった。 「生まれてくる子どもを自分のように不幸にはしたくない。なので、もう出て行こうと思います」 宮司は焦り、腰を上げた。那美に一歩近づいた。 「来ないで!」 那美が声をあげて、宮司を制した。 「あと一歩でも近づかれたら、ちゃんとしたお別れも言わずに私は出て行かなければならなくなる」 「大事な子を身ごもって、そんな身体で出て行くのは危険だ」 「危険でも、ここにいるよりは外の方が安全です。きっと、外に出れば私に協力してくれる人はいくらでもいるから」 宮司の顔が歪む。 「私は、左之助を見つけ出します。左之助と一緒に暮らします。それが私の幸せです。お父様、今までお世話になりました」 「待ってくれ──」 そのとき、切羽詰った宮司は何もかもを捨てた。足を曲げ、正座をし、両手を床に着いた。腰を曲げ、床に頭を着けた。 宮司は、娘に対して土下座をした。 「ワタシが、何もかも悪かった。何もかも間違っておった。今までの過ちを赦してくれとは言わん。だが、やり直す機を与えて欲しい。この社には那美が必要なんだ」 「私の赤髪が必要なのでしょ?」 「違う、必要なのは那美だ。この社から那美がいなくなるなど、考えられない。母がきっと悲しむ。ワタシも悲しい」 工夫のない言葉に那美は嘲笑した。 「お父様が欲しいのは、赤髪か、赤髪に取って代わる力を持つかもしれない、神の子なのでは?」 「ワタシは、那美とお腹の子の行く末を心配しているのだ。お前が子どもを身ごもっていると知って、ワタシは変わったはず」 それは宮司がお腹の子を神の子だと思い込んでいるから。そう考えた那美は、もう真実を言うことにした。 「お父様、お腹の子は神の子などではありません」 「左之助との子であろう」 意外な言葉が返ってきた。 「──知っていたのですか?」 「ワタシはそこまで何もわからぬ人間ではない」 そう言って、宮司は小さく笑った。 「知っていながら、何も聞かずにいてくださったのですか?」 宮司は言葉なくうなずく。 「那美に言うとおり、ワタシは自分のために行動してきた部分が多くある。だが、那美にため、というのも嘘ではない。ひいては、この社のためでもあったのだよ」 「だからといって──私の指を落とすのは残忍です!」 「ならば腹いせにワタシの小指を落とすか? それで那美の気が済み、この社に居続けてくれるのなら、構わない」 宮司の目には迷いがなかった。那美は一瞬、言葉を失くした。 「……お父様の指を落としたところで、私の指が戻るわけではありません」 「だがお前の心はこの社に戻る。そう考えれば、ワタシの小指一本など安いものだ。さあ、刃物を持ってこい。指を切らせてやる」 宮司は本気だと、那美は感じた。 「お父様の指は切りません……ですが、条件があります」 その条件を呑むのなら、那美は社に居続ける覚悟でいた。 「左之助を里に連れ戻してください」 「恐らく、左之助のことだろうとは予想しておった。左之助がどこに行ったかはわからぬが、周辺の村や町を誰かに捜索させよう」 まだ宮司を信用できない那美は、更に付け加えた。 「私が自ら探しに行きます」 「それはならぬ、お前はこの社で安静にしていなさい。お腹の子にもしものことがあってはならぬから」 宮司は本気で自分と子を守ろうと考えている。その意志を知り、那美はようやく警戒を解いた。 「ならば、左之助が見つからなければ、子が生まれてから私も左之助を探しに出ます」 その言葉に、宮司は鷹揚にうなずいた。 「好きにすればいい」 かくして、那美は変わりなく社にいることとなった。宮司は約束したとおり、里の者や宮司自身が周辺の村や町に出たついでに、左之助のことを訊いたのだが、左之助はどこにもおらず、また、行った先を知っていた者はいなかった。 那美は、左之助の両親に会った。そうして事情を話し、左之助を追いだすような結果となったことを謝った。両親は「巫女様に謝ることなど何もありません」と言った。そうして、生まれてくる子を心から待ち望んだ。 7 那美にとって、日々は穏やかなものとなった。里の者たちは那美が左之助の子を宿していることを知り、それを歓迎した。より積極的に左之助の捜索をするようになった。だが、やはり見つからなかった。手がかりすら掴めなかった。恐らく、遠くの地へ行ってしまったのだろう。 那美は、里の者に会ったとき、決して宮司のことを悪く言わなかった。宮司が心を改めたのだから、もう過去のことは忘れようと決めた。 左之助が見つからぬまま、時は瞬く間に流れる。 お腹の子は順調に育っていき、臨月を迎えた。 出産のときは日の明るいうちに訪れた。 社で子を産むこととなり、里の産婆が呼ばれた。お腹の子に会えるという喜びを糧に、那美は痛みを耐え忍んだ。 陣痛から約六時間後、ついに子は生まれ落ちた。 「よくやったぞ、那美」 産婆から宮司に子は渡され、宮司は涙を流していた。母も、那美も涙を流した。五体満足の男の子で、健康的な産声をあげた。 那美はその胸に子を抱えたいと、両手を伸ばした。 「お父様、子を抱かせてください」 宮司は笑みを浮かべながら言った。 「それはならぬ」 意味がわからず、那美の表情は曇る。 「なぜですか?」 すると、宮司の顔から笑みが消えた。 「これは赤髪の巫女として、やってはならぬ罪を犯したその結果だからだ。ここに過ちの全てが集約されている。あとはこの穢れた子を神に捧げれば、那美に赤髪が戻るのだ」 すぐに意味を把握できなかった。唐突に突きつけられた宮司の幻想に、那美の思考は停止した。しかし、宮司が立ち上がって子を抱えたまま社を去ろうとしたところで、とっさに那美の身体が動いた。宮司の真情も理解した。 だが、事はもっと厄介で、重いものだった。動きだした那美を、産婆と母が押さえつけた。 「──どうして? 離してお母様、私の子どもが生贄にされてしまう! お父様は妄想しているのよ!」 「これはあなたに赤髪を戻すために必要なことなのよ」 「巫女様、宮司様は妄想などしておりません。巫女様を想ってのこと。赤髪が戻れば、また皆に縁の幸福を呼び戻せるではないですか」 二人は宮司に言いくるめられている。那美に対して、聞く耳を完全に塞いでいる。 自分の言葉ではどうしようもないと那美は悟り、全身に力を籠めた。わが子を守るための力が発揮された。二人を振りほどき、立ち上がって駆けだし、社を出た。 神木の前に宮司はいた。 赤ん坊の姿は、どこにもない。 宮司が鋤で穴に土を被せていた。それは恐らく、以前から掘ってあったのだろう。宮司は赤ん坊を埋めてしまうつもりでいたのだろう。穴はほとんど塞がり、子の姿はもう見えなかった。 那美は叫び声をあげた。悲鳴、絶叫、怒号の全ての言葉が当てはまるような、そんな声だった。声は恐らく里にも届いただろう。 激しい憎しみが湧き上がり、那美はこのとき、宮司を殺す気で立ち向かった。 しかし、那美は宮司の持つ鋤で殴打された。 那美の意識は途切れた。 那美が目を開いたとき、真っ暗だった。 外ではない。室内で、自分の寝床にいることをすぐ把握した。どうやってそこまで来たのか検討はつかないが、何よりも赤ん坊のことが那美の脳裏に過ぎり、家を飛びだした。 オギャー── 風の音の中に、赤ん坊の声が聴こえた。 幻聴のように感じられたが、助けを求める声が聴こえたのかと那美は思った。 ご神木の前に着くと、そこにあったはずの穴はもう完全に塞がっていた。穴があったはずの場所に、まるで墓標のように鋤が刺さっていた。 「そんな……」 那美の腰が折れ、地に泣き崩れた。 なぜあのとき逃げださなかったのかと後悔をした。 なぜ安易に父を信じてしまったのかと、自分を怨んだ。 那美はそのまま、社を出た。 8 残された希望に縋るしか、那美には生きる道がなかった。もしその事実を知っていなければ、那美は自害していただろう。 夜通し歩き、朝になる。 日中もずっと歩き、夜になる。 取り憑かれたように道を進み続けた。道中、人とすれ違うこともあったが、誰も赤髪の巫女だとは思わなかった。 途中、道行く人に道を尋ねたとき、善意ある人から食べ物をもらったこともあった。体力が限界を向かえ、道の脇で倒れるように眠ることもあった。 そうやって、死ぬことはなく、四日目にしてようやく目的地に着いた。盛んに人の声が飛び交い、多くの家が軒を連ねていた。宿場町とは比にならないほど、町の規模は大きく、活気づいていた。 「ここが都……」 ぽつりと那美が呟いた。 今の那美のような──物乞いのような装いをしている者は誰もいない。華やかな都だった。 那美は人々に聞きまわった。 「左之助という人を知りませんか?」 多くの人が那美を避けた。薄汚い遊女だと罵った。 まともに答えてくれる人もいたが、誰も知らなかった。 それでも、那美は諦めなかった。必ずここにいるはずだと信じた。 那美の努力は次の日、実った。若い男が左之助を知っていた。詳しい特徴も、那美の想像と一致した。 「前はここに住んでいたけど、今は少し離れた山の麓の村で暮らしているよ」 人の多い環境は左之助にとって合わなかったようで、故郷と似た環境に移り住んだと男は言った。 「アンタ、左之助の故郷のもんかい?」 那美はうなずいた。 「本当か? 赤髪の巫女を知っているか?」 戸惑い気味に那美は「知っています」と答える。 「そうだよな。以前はこの都でも、その話でもちきりだったぐらいだ。故郷のもんが知らないわけがない。赤髪をひとたび小指に結うと、たちまち良い出会いに恵まれるのだろう?」 ええ、と無感情で那美は答える。男は楽しそうに笑った。 「俺も結ってもらいてぇなあ。巫女様って、とんでもないほどの別嬪で、それでいて人情深く、器量よしの完璧なお人なのだろう? 左之助がそう言っていた」 涙が、溢れ出しそうになった。那美は堪えた。 「よくみりゃ、アンタもなかなか良い顔してるなあ。身なりを整えれば男たちが黙っちゃいねえぞ。どうだ? 俺の家にこないか?」 那美は首を振った。 「私は、左之助を追いかけてここまできたから」 「あー……」 男はどこか暗い顔で数度うなずく。 「故郷では左之助のコレだったのか?」 男は左の小指を立てた。するとそこに、赤髪が結われていた。 「赤髪……」 那美が呟くと、男は小指に視線を向けた。 「これは赤髪じゃねえ。赤い糸だ」 「糸?」 「ああ。嫁っこや婿探ししてるもんは大概これを付けてる。赤髪が手に入らない奴が、こうやって赤い糸を結うようになったんだよ。赤髪じゃねえけど、結構効果があるんだぜ。ひと目で婚姻相手を探していることがわかるしな」 那美は行き交う人々に目をやった。小指を見ると、確かに何人かが赤い糸を指に結っていた。 「まあ、本物の赤髪には敵わねえけど。結ってないよりは良いってところだ」 那美に嬉しさがこみ上げた。 赤髪の力はなくなったけれど、都では余韻が残り、風習となって、今尚男女をくっつけようとしている。縁結びをしている。 「つまり、俺は嫁を探しているんだよ。アンタ、本当に俺の嫁にならないか? 家は代々名の知れた万屋で、家の嫁に来れば安泰に暮らしていけるぞ」 「私は左之助に会うためにここへ来たのです。申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」 「そうか……」男は力なく笑う。「アイツは色男だからなあ」 「村の場所を教えていただけますか?」 「どうしても会いにいくか?」 「ええ。そのために来たから」 「わかった」 男は道を教えてくれた。街道を半日ほど歩けば着くらしい。男は万屋の場所も教えた。持て成すので気が向いたら来てほしい、と言った。 「アンタが戻ってくるのを待っているよ」 別れ際、男が那美にそう言った。那美は“戻ってくるはずがない”と心に思った。 教えてもらった街道を歩く。 ずっと歩き続けて足がどうにかなってしまいそうだったけれど、今は不思議と軽やかになっていた。歩くことが何の苦にもならなかった。 あとほんの少し歩けば、ようやく、愛しい人に再会できる。 思ったより早く、村が見えた。半日歩いて着くという話だったので、那美が早歩きで来た結果なのかもしれない。小さな村だった。里と同じぐらいの規模だ。 那美の鼓動は高鳴った。すると、身なりを整えてから来れば良かったと思った。那美は畑の手入れをしている 「あの、左之助という人はこの村にいますか?」 「左之助? ああ、庄屋様のところの」 庄屋様のところ? 意味がわからず、那美は眉を顰めた。もしかしたら、村の庄屋様のところでお世話になっているのかもしれない。 「あそこの家だよ。一番大きい家」 姥が指差す方に、村一番の大きな家があった。 家の前で立ち尽くし、那美はどうしたらいいのか迷った。なんて言ったらいいのか──目の前の引き戸を開けられずにいた。だが、ここまで来て引き返せるわけがない。 勇気を出し、言葉を決め、戸を開けた。 「左之助様はいませんか?」 そう言って、奥の音に耳を傾けると、足音がこちらに向かってきた。 足音の主が、那美の前に姿を見せる。その人は、那美の姿を見るや眉を顰めた。 「誰ですか?」 全くわからないようだった。それは当然。那美の象徴である赤髪はなく、黒髪になってしまっていて、みすぼらしい姿なのだから、その人にはわからなかった。 だが那美は違った。その人は、どこも変わっていなかった。身なりや髪型に違いはあれど、その姿を見た瞬間、那美が涙を零してしまうほど、判別はすぐについた。 那美の涙を見て、その人はハッと息を呑んだ。 「まさか──」 次々と那美の両目から、雫が零れ落ちる。唇が震えて、ガチガチと歯の音をたてた。 「左之助──」 愛しい人の姿を見つけ、ようやく那美の張りつめていた気持ちが緩んだ。 「巫女様……」 那美は大きく首を振った。 「そんなふうに呼ばないで……」 「本当に、那美なのか?」 那美は息を呑み込んでうなずく。 「その姿はどうした? 赤髪は? いったい何があった?」 それを話す前に、胸の中へと飛び込みたかった。那美は左之助の元へ近寄り── ふっと、人が姿を現した。 若い女だった。 「左之助、どなた?」 そう言った女は、腹を大きくしていた。 ひと目で妊娠しているとわかった。 急速に那美の思考が働き、結論が出た。 すると、那美の顔色は一気に青ざめた。それを左之助は察した。 「那美、どうしてここへ来た? ……今更になってどうして?」 那美は首を振った。はじめは弱く。次第に強く。 「全てはお父様がしたことだったの──私は、左之助を追いだすようなお告げなどきいていない──私は、お父様に、蔵に閉じ込められていた──そこで、ずっと左之助を待っていた!」 溜め込んでいた感情を吐きだすように、那美は声を張り上げた。 更に那美は止め処なく溢れる言葉を続ける。 「──永遠の約束は? どんなことがあっても私を愛し、傍にいて、守ってくれるのではなかったの? 二人で幸せになる約束は? 左之助の想いは、赤髪がなければ身を引いてしまうような弱いものだったの? ねえ、左之助──どうして、どうして──」 ついに那美は泣き崩れた。顔を両手で覆い、指の隙間から土砂降りのような涙を流した。喚き泣き続けた。 「なんだい、その薄汚い女は」 那美が声の方を見遣ると、よく肥えたふてぶてしい女が立っていた。晩の仕度をしていたのか、手には料理用の刃物を握っていた。 「左之助の知り合いかい? 物乞いみたいな汚い格好して。うるさいんだよ。家の敷居を跨がないでおくれ。家が汚れちまうよ」 那美は、左之助に目を向けた。助けを求めるような目を。 「那美」 左之助は静かに言った。 「出ていってくれ」 否定、拒絶。愛し合った日々が何だったのか、那美にはわからなくなった。 でも──それでも信じたくなった。女が妊娠していることなど、那美は受け入れた。裕福な家に住んでいるのだから、左之助など必要ないはず。 那美は、おもむろに左之助の手を掴んだ。 「本当は、私を愛しているよね? 二人で過ごして愛し合ったあの瞬間が嘘だったなんて思えない。『永遠に那美を愛する、どんなことがあっても傍にいる、那美を守る』……私はこの言葉を忘れた日はなかった」 左之助は目を伏せ、その目を閉じ、首を振った。そうして再び那美を見た。 「嘘じゃなかったよ。でも、それはもう過去のことだ。俺だって、泣いてしまうほど辛かった。何度も会わせてほしいと宮司様に言った。けれど、那美が会いたくないと言っている、と宮司様が言ったんだ」 「言ってない!」 「ああ、わかってる。でも、そんなこと、俺は知らなかった。那美の幸せのためにも、出て行くしかないと思ったんだ。都に来て、この千代に出会った。心の傷ついた俺を、千代が癒してくれた」 那美は下唇を噛んだ。 「左之助の故郷の女かい」 ふてぶてしい女が言った。恐らく千代の母だろう。 「聞いての通り、薄汚いアンタよりも、左之助は千代を選んだ。そうだろ?」 左之助は千代の母を見て、那美に目をやった。そうして、目を伏せた。 「どっちなのさ? はっきり答えなきゃ、アンタもここから追いだすよ」 左之助は小さく溜め息を吐いた。 「千代は見ての通り、俺の子をみごもっている。もう俺の心に那美はいない」 それが、那美には言わされてるような気がした。本心ではない気がした。 那美には、どうしても信じられなかった。それは、那美だけが左之助を愛したまま時間が止まっていたからなのかもしれない。 考える前に那美は行動していた。千代の母を突き飛ばして刃物を奪い、千代の背後に回って手を回し、お腹に刃をあてがった。 「私も、左之助の子をみごもったよ?」 掠れた声で那美は言う。左之助は驚いていた。 「左之助の子を、産んだよ? けれど、お父様が子を取り上げて、穢れた子だからと生き埋めにしてしまった。再び私に赤髪を戻すために生贄にしたの。戻るわけもないのに。私と左之助の子は、お父様に殺されたの」 「左之助、助けて……」 「何やってるのさ! 千代を助けな!」 左之助は戸惑い、身動きがとれずにいた。ただ弱々しく、「やめてくれ」と呟いた。 「左之助、私を愛して……私を愛すると言って……私には左之助しかいない」 言葉が消える。緊迫した状況に、左之助も千代の母も動けずにいた。 「いいよ、左之助」 ふいに千代が言った。 「この人を愛してあげて。この人でしょ? いつも左之助が話してくれた、故郷の想い人。この人には左之助が必要なのよ。故郷は遠いのでしょ? それなのに、ボロボロになってまで左之助に会うためにやってきた。それは、とても強い想いがなければできない。私は、この人の想いに勝てないわ」 「そんな、俺は──」 左之助は先の言葉を噤んだ。それを言ってしまうと、千代と子どもを危険にさらしてしまうからだった。 「俺は……那美を、愛しているよ」 代わりにそう言った。それが無理やりであることは瞭然だった。 那美は、悟った。 左之助が確かに千代を愛していることを。心変わりしてしまったことを。 しかし、千代は那美の心情を察して身を引いてしまおうとしている。 もし二人が赤髪を結っていたらどうだろう? きっと、全力で那美を否定している。 赤髪を結っていなくとも、左之助は千代を愛し、千代は左之助を想っている。赤髪を結っていないからこそ、千代は那美の心情を察することができた。 人情深く、器量のよい人というのは、千代のことを指すのだと那美は思った。母体に刃物を突きつける人は違う。その人は器量も人情もない。 引かなければならない。もはや左之助と千代の間では、邪魔な存在でしかないのだから。 もう、那美に生きる場所はなくなった。 「愛しているから、千代とお腹の子を傷つけないでくれ……」 左之助が悲しい顔をした。それが那美には耐えられなかった。 千代から離れ、那美は二歩下がる。 「那美さん、それを私に頂戴?」 刃物を突きつけられていたにも拘らず、千代は優しい口調で言った。 「那美、それを離せ」 那美は、赤く目を腫らしながら、左之助を見て笑いかけた。 「たとえ、この身が朽ちようとも、魂は左之助を永遠に求めるから。輪廻して、同じ時代に生まれたときは、どうかもう一度私を愛して。私も、左之助を追い求めるから」 そう言い、那美は自分の喉元に刃をあてがう。 とっさに左之助が動いた。千代も動いた。 那美を、止めるために。 そのせいなのかはわからないが、那美は、最後の涙を零した。 「縁の神が、左之助様と千代様の相思相愛をいつまでも守ってくださるように」 那美が喉を掻っ切る── それと同時に千代と左之助の手が届いた。 迸った鮮血が壁一面に飛び散り、那美は倒れこんだ。 床に広がる血が、那美の髪を赤色に染めた。 9 赤髪の力が戻った。 しかし、それは以前のような、幸せな縁結びをもたらすものではなかった。力が戻ることを信じて赤髪を結っていたものは、次々と不幸になっていった。 ある者は過剰に想い人を愛してお互いに破滅し、ある者は想い人の周りの者を過剰な嫉妬で殺し、ある者は恋を成就できずに発狂して自殺をした。 赤髪を結っていた者は、口を揃えてこう言ったという。 「指輪を外すな」 異常な力が働いていたのだが、赤髪を結う者は誰一人自分で外そうとはしなかった。外すことを拒んだ。 そこで、周りの者が無理やり赤髪を解こうと試みたのだが、解けなかった。蝶を解くことはできるのだが、それからが解けず、指にくっついて外れなかった。赤髪は、指と結合していた。 これが「祟り」「呪い」だと言われるようになるのは、当然の流れだった。何の呪いや祟りか、という見方は様々だったが、忌み嫌う者たちがついには指を切り落とす事件も勃発した。「赤髪狩り」というものが行なわれるようになった。 赤い糸を巻く者たちには、「祟り」や「呪い」と言われるような類の兆候はなかった。が、赤髪が忌み嫌われていくことによって、皆、外していくようになった。 一方で、赤い糸を結い続ける者に微かな力を感じる者もいた。それは気のせいだったのかもしれないが、想い人に積極的になれた、という者もいた。 いつしか、赤い糸を結うことは、「まじない」「のろい」にかける、といわれるようになる。どこでどう変化したのか、「赤髪」は、「赤神」と言われるようになった。赤神の力で想い人や自らを、恋のまじないにかける方法として、赤い糸が結われるようになっていった。 だが、次第に赤い糸の力は誰も感じなくなっていき、このまじないは廃れていった。 〈第零話 「赤髪の巫女」end〉 |
最終話 » colorless Catトップ |