最終話 「赤髪の少女」‐神楽 奈海‐


 赤い糸を結って以来、夢を見るようになった。
 哀愁に彩られた遠い昔の夢。
 あれは、ただの夢なのだろうか。偶然にも夢に登場する女は、あたしと同じ名前だった。そして、あたしの大好きな担任の藤原先生もいた。
 夢は、とにかく現実的だった。いや、普通の夢だって現実感のあるものなんだけれど、夢から醒めたあとも強烈なリアリティーが持続していた。夢で触れた物の質感、交わした言葉に対する感情の動き方、先生と触れ合ったときの温かみ。何もかも、夢の中ではまるで現実のようで、目を覚ましたあとも、体感した感覚が消えることがなかった。


  1


 中二の夏休み明け。二学期の始まり。
 始業式当日、あたしは自慢のロングヘアを真っ赤に染めて登校した。センコー共はあたしを見るや、適当な説教を述べて捕まえ、黒髪に直そうとしてきたけれど、あたしは学校から逃げだした。
 どうしてそんなことをしたかって、元々あたしは髪を金髪にしていたし、それが物足りなくなったから思い切って赤に染めただけ。
 あたしは少数の不良グループに属していた。真面目な集団が嫌いだし、大人ぶって頭の悪い正しさを押し付ける能無しセンコーも嫌い。
 あたしは、低俗なしがらみに縛られた土地で育った。ど田舎で閉鎖的。浮いたことが絶対に許されない町だった。鬱陶しいほど近所付き合いがされていて、警察官の父親は異常に世間体を気にしていた。
 どのご近所も、人付き合いを必ずするということが暗黙のうちに確約されているようで、顔を合わせればどの住民も、笑った。だがその笑顔はどこか機械的で、あたしはいつも町の人の笑顔をみるたび吐き気がした。愛想の良い町づくり、みたいなことを昔からしているらしいので、誰もが淡々と愛想が良かった。
 町の風習がそんなふうなのは理由があった。これは母から聞いた話なのだが、町の住人の何割かは元々この土地の出身の者ではなく、いわくつきの山里から越してきた人たちらしい。
 なぜいわくつきだったのかは定かではないが、山里の人たちは山を降りることを余儀なくされ、ほとんどがこの町に移り住んだという。山里自体、元は名所のようなものだったらしく、権力を持った土地だったため、元々の住人たちは移ってきた山里の人たちを受け入れざるをえなかった。
 いわくつきの住人たちと共同生活なんて、絶対に嫌だっただろうけれど、山里のひとたちは愛想だけはよく、丁寧に人づきあいをしていたため、住人は何も文句を言えなかった。
 触らぬ神に祟りなし。そんな山里のひとたちに合わせて、住人も無理に愛想を作るようになったのだという。そんなくだらない風習が今でも根付いているんだとか。
 この話をしてくれた母は、見合いで強制的に結婚させられたようなものだった。母方の祖父母も同じくガチガチのしがらみに縛られたような人で、警察官という名誉ある仕事をしている父との結婚を押し迫った。母は当時、好きだった人がいたらしいけれど、その人は大した稼ぎもない、別の町に住むフリーターだった。だからこそ父との見合いがセッティングされ、父が母を気に入ったので、母の意志は全く汲み取られることなく結婚が成立した。母はまた更に厄介な檻の中へと放り込まれた。どうしようもない大人たちの社会性と、独裁的な父によって強引にあたしが生まれ、母はあたしが小学校に上がる頃、蒸発した。
 父はことあるごとに逃げた母を罵った。お前はそんなふうになるなといつもあたしに言っていた。一歩外に出ると、関係のないご近所までが母を罵り、根も葉もない噂を立てられた。一番言われていたのは、男と逃げた、というもの。まあ、実際はそうだったんだけど。
 後に母が戻ってきて、あたしが話を聞いたら、若い男と逃げた、ということだった。付き合っていたフリーターの男ではない。
 母が戻ってきた理由は、離婚のことだった。父は決して手を上げる人ではないのだが、自分がどれだけ迷惑を被ったか、というのを延々と喋り続け、母の精神をズタズタにした。母は耐えるだけで、ただ「離婚してほしい」と主張を繰り返し、離婚は成立した。母の一家は逃げるように町を出た。元々なかったようなものだけど、「母の愛」というのがあたしの前から完全に消え去った。
「父の愛」なんてのもないのと一緒。あたしは父の檻に入れられて、その檻に父が入ってくることはない。外からエサと調教の言葉を投げかけてくるだけ。
 母が出て行ってから、父はよく酒を飲むようになった。母と離婚してからは更に酒の量は増えた。父は酒が入っているときだけ、暴力的になった。手は出さないが、あたしに物を投げた。その理由は特にない。あたしが母親に似ているからかもしれない。
 それでも、表に出ると父の人格は一八〇度変わった。世間体だけは常に良かった。
 そんな環境で育って、グレないほうがおかしい。小学校の頃から周りとは全然噛み合わなくて、上手く友達は作れなかった。中学に入って不良に憧れ、髪を金髪にした。当然父は怒り狂ったが、そんなのは知らない。その日から、あたしと父は真正面から敵対するようになった。顔を合わせるたびに父が怒鳴り、髪のことや帰る時間が遅いことに文句を言った。あたしは、「酒臭いんだよ」と悪態をついた。
 家にいると苛立ちばかりが募るから、夜遊びするしか発散方法はない。
 本当は電車に乗って都会に出たかったんだけど、父からは全然小遣いを貰えず、仕方がないから微妙に栄えた近場の街へ、自転車で繰りだしていた。そこで友達と男を引っかけて、遊び代を奢ってもらっていた。時に友達は男にホテルへと連れて行かれた。時に援交する子もいた。もちろんあたしもそういうことに誘われるけれど、それだけは絶対に断っていた。決して警官の娘だから、という理由ではない。単純に、気持ちが悪いから。安いオンナになりたくなかった。いつでもあたしは、「みんなと違う」と一線を引いていた。
 無理やり襲いかかってくる馬鹿男もいたけど、そういう奴に対してだけ、あたしは父を盾にした。「あたし警察の娘だから」と言い、信じない奴には写真を見せた。小さなあたしとお母さんと、制服を着た父が写っている写真。それを見ると、男はビビッてあたしから引いた。写真を持っている理由は単なる魔除け。利用価値があるから持っているだけ。
 あたしが世間体を汚す道を走っていることが次第に知れ渡ると、近所の人たちはあたしに後ろ指を指すようになった。盗みをしているとか、売春してるとか、やってもない噂を立てられて、それが父の耳に入ると、顔を真っ赤にしてあたしを問い詰めた。あたしも顔を真っ赤にして否定したが、父は信じてくれず、そのとき初めて手を上げられた。頬をはたかれた。
 一度やってしまえば二度も三度も同じなのか、それからよく父が手をあげるようになった。DVとまではいかないが、あたしが悪いことをした、と父が一方的に解釈すれば、それで引っ叩かれた。
 手を上げられるようになってから、あたしも本当に悪いことをやってやろうかと思うときが多々あった。思うだけで、それは心の内側に閉じ込める。いくら周りの悪事がエスカレートしようが、あたしは常に傍観し続けた。あたしはあたしのポリシーを貫いた。
 そんなんだから、いつしかあたしは「ノリが悪い」と、疎外されるようになった。中二の夏休みのことだった。
 それはそれで受け止めた。あたしはみんなと違う。だからこそ、まだ誰もやっていない赤色に髪を染めた。あたしは特別な存在でいたかった。


  2


 センコーは本当に馬鹿だ。休み明け、髪の色が違うまま登校すると、捕まえてスプレーで髪を黒くしようとする。又は家で直してこいと言う。スプレーで上辺だけ黒くしても、心の色は何も変わっていない。家で直せるのなら最初から不良なんてやってない。それに気づかない能無しの大人達。
 もちろん悪いセンコーばかりではない。音楽の授業を受け持つ岡本先生という人は、とても情があって女性らしく、広い心の器をもつ良い先生だった。若い先生であたしたちと年齢も近く、それなりに心情をわかってくれた。だけどそんな先生でさえ、やんわりとあたしの赤髪を否定して遠まわしにやめるように言ってきた。センコーという立場に結局逆らえ切れないんだと思う。
 あたしは赤髪で居続けた。赤髪を認めないのなら学校には来ないと言い張った。時に捕まって、スプレーで黒にされるけど、すぐ赤色に戻してみせた。
 あたしは、髪の色を認めさせるために何もしなかったわけじゃない。ヘンな文句を言わせたくなかったから、勉強を頑張っていた。テストがあれば、常に成績は上位に入った。友達と(つる)まなくなってからは暇ができたから、その時間を勉強にあてた。それで成績は更に上がって、得意な教科は一桁台の順位を収めることもあった。だが、父にもセンコーにもご近所にも、赤髪のあたしが認められることはなかった。
 中二の終わり頃になると、あたしは連んでいた奴らに「生意気だ」と喧嘩を売られるようになった。あたしは真正面から受けて立っていた。陰気な嫌がらせを受けることもあった。あたしは嫌がらせをしてきた奴を殴り飛ばした。
 すると、なぜかあたしが問い詰められた。そいつらの親が先生を巻き込んで、どうしてそんな暴力を振ったのか、と詰問(きつもん)された。こっちは被害者だと理由を説明しても、何かとあたしの非を暴こうとしてきた。
 学校にいた不良は中途半端なのが多く、表面上はセンコー共の言いなりになっていることがよくあったから、センコーにとってあたしよりそいつらの方が真面目に見えていたらしい。赤髪を貫いた結果──たったそれだけの理由であたしは悪者にされた。父はその件に対して一方的に謝った。あたしを無理にでも謝らせようとしたが、あたしは拒んだ。家であたしは引っ叩かれ、長々と説教を受けた。
 その日、ようやく学校も勉強も無意味だと気づいた。あたしは学校に行くのをやめた。戦うのをやめた。
 抜け殻のように家で引き籠もることもあれば、街に出ることもあった。ただ、街に出てもやることは何もない。ナンパしてくる男についていくこともあったけれど、最終的に身体を求められるから、それは絶対に拒んだ。無理に求められても、父を盾にした。
 学校が春休みに入る。もう行く気はなかったから、春休み中に父には黙って、母のいる静岡へ行った。母は、父と離婚した当時とは違う男と一緒に賃貸マンションで暮らしていた。三度目の結婚相手らしい。義理父は母より三つ年上だった。
 そこに住まわせてもらうことになったんだけど……あたしと母は、親子としては離れすぎていた。親子関係になれそうもなかった。そもそも、親子として生活していた記憶があたしにはほとんどないのだから。
 義理父は最初、良い人かと思ったけれど、すぐに本性は見えた。父みたいな口うるさい人だった。どうしてこんな人と結婚したのか、あたしにはわからない。外見の魅力は皆無だし。
 でも、一応父よりはマシだし、あたしも行くところがなかったので、我慢して母の元にいた。


  3


 四月に入り、学校では中三の一学期が始まった。今のあたしには関係のないことだけど、それだけは意識していた。
 あたしは母のマンションにいた。家には帰らなかった。前日、あたしが帰らないことについて義理父がうるさく言ってきたけれど、あたしはそれを無視した。母は何も言わなかったからこそ居続けることはできた。でも、これをずっと続けるわけにはいかない。
 意外なことに、父からは何も連絡がなかった。あたしは携帯を持っていないが、父は母の携帯番号を知っている。だが春休み中、母に連絡はなかった。もしかしたら厄介払いできて清々としているのかもしれない。
 今日も何もせず、陽が暮れる。外に出る気もなく、勉強をする意味もなく、暇なあたしがすることといえば、テレビを観るくらいだった。だが最近のテレビはつまらない。どの番組をつけても、低能なおまじないのことばかり喋っている。
 どれだけ流行ろうが、あたしはそのまじないをやらないだろう。まず好きな人がいない。誰かを好きになる気がない。それと、流行に乗りたくない。
 トゥルルルル──
 インターホンが鳴った。この家のインターホンはまるで電話の音だ。
 あたしには関係ないから、居留守を使う。鍵は締めてあるから、居留守がばれる心配はない。母や義理父という可能性はない。母がパートから帰ってくるのはまだ少し後だし、義理父の帰りはいつも母より遅い。
「あの、城東中学校の者ですが」
 ふいに飛びだしたあたしの通う学校の名前。声はよく通るような男の声だった。
神楽(かぐら)奈海(なみ)さんはいらっしゃいますか?」
 学校の先生だろう。よくここまで来たものだ。
 あたしはいない振りをしてみせる。
「居留守使ってるのは分かってますよぉー」
 ……ばれてる。
「ドア越しでもいいから、声だけでも聞かせてもらえませんかぁー」
 仕方ない。わざわざここまで来たんだし、ちょっと相手するか。
 あたしは玄関の前に移動して、低い声音で「なんですか?」と発した。
「あ、本当にいた。いないかと思ったのに」
 ──まんまと引っかけられたのか、くそっ。
「なんの用ですか?」
「俺は、今年四月から城東中学に着任した、国語教師の藤原と言います。知らないだろうけど、君は三年B組のクラスになった。それで、俺は三年B組を受け持つことになったんだ」
 つまり、あたしの担任なんだ。
「こんなところまで来て、ご苦労な担任だね」
「ああ、すごいだろ? 褒めてくれ」
 この先生、なんかヘン。
「早速初日から学校に来ないという、ユーモア溢れる生徒の顔が見たくて、ここまで来たんだ。この努力を評価する意味でも、顔を見せてくれないか?」
 むしろこっちがセンコーの顔に興味があった。右目を瞑り、左目で覗き穴を覗く。だが、真っ暗で何も見えない。まだ外は明るいし、暗くなっても玄関の前は明かりがついているから、景色は見えるはず。おそらく、このセンコーは指で穴を塞いでいる。
「チェーンロックしていても構わない」
 仕方ない。チェーンロックを掛けて鍵を開けた。レバーノブを下げ、茶色いドアを押しだす。
 ──視界に、男性の顔が飛び込んできた。その瞬間あたしは息を呑んだ。
 完全にどストライクだった。事前に想像していた顔がおっさん臭い顔だったんだけど、それとは真逆の顔立ち。年齢を感じさせられつつも若々しさや男らしさが感じられる。パッと見だが、守ってもらえそうなくらい、肉体の作りもそこそこしっかりしていそうだった。二重できりっとした目立ちだから、眼力があった。
 そんな彼はあたしを見るや、ひどく優しげな微笑みを浮かべる。それはどうみても作り笑顔ではなかった。なぜかはわからないけれど、本物の微笑みだとわかった。
「噂どおりの見事な赤髪だね」
 あたしの全身が、彼にひと目惚れしていた。
「どうしたの、ぽかんと口開けて」
 口を閉じて視線を逸らす。
「まさか俺に惚れちゃった?」
「誰がアンタに惚れるかよ!」と、先生を睨んで悪態をついてしまった。
「冗談だよ」先生は少し身を引かす。「おかしなこと言って悪かった」
 態度を怒られるかと思ったら、先生は自分の非を認めた。あたしはどんな態度を取ればいいのかを見失い、言いたいことが浮かぶものの、口にできずにいた。
 いや、深く考えるな。いつものセンコーに対する態度でいよう。
「こんなところまで来て、連れ戻しに来たんでしょ?」
「もちろん」と、先生は即答する。「無理に、とはいえないけど、できれば戻ってきてほしい」
「じゃあ戻らない」
「それは困る」
「無理にとはいわないんでしょ?」
「そうは言ったけど、本音は戻ってきてほしいから」
 一瞬、調子が狂いかける。「あたし、戻らない」
「今日なら先生の車でスッと戻れるよ?」
 あたしはかぶりを振る。
「どうして戻りたくないの?」
「学校つまんない。センコーも友達もウザイ。勉強する意味がわからない。学校行く意味もわかんない」
 先生は何度もうなずいていた。
「それなら──」
「それともう一つ」と、先生の言葉を遮る。「あたし、髪の色戻す気ないから」
 そう言ってみせると、先生は笑った。柔らかく、優しげに。
「その見事な赤髪はそのままで全然構わない。他の先生はうるさく言うのかもしれないが、俺は生徒の髪が茶色かろうが金髪だろうが黄色かろうが緑色だろうがピンクだろうが」
 あたしは口角が上がるのを堪えた。
「そんなことで学校の生徒として不適格だなんて思わない。髪の色を変えたって、生徒は生徒だし、街に出れば染めてる人なんてごまんといる。ていうか、緑色の髪の生徒なんて面白そうだから見てみたいぐらいだ。そいつが男子生徒なら、俺はブロッコリーとでも呼んで生徒いじりをするぞ」
 やっぱりこの先生はヘンだ。他のセンコーとは違う。
「先生は、神楽さんにとってウザい先生にならないよう気をつける。学校がつまらないのは仕方ない。俺もつまらないと思ってるから」
 あたしは小さく笑ってしまった。すると先生も薄っすら笑った。
「でも、君が俺のクラスにいてくれたら、なんだか楽しくなりそう──というのは、神楽さんの気分を害するかな?」
「あたしがいたら先生が楽しくなるの? なんで?」
「色のない教室に真っ赤なシンボルができたら、華があるから」
「あたしがシンボル?」
「そう。悪い意味で言ってるわけじゃないよ? 自慢のクラスになるってこと。神楽さんは成績も良いようだし、俺の授業中は君が飽きないよう、当てまくるから」
「えー、めんどくさい」
「嫌ならあんまり当てないよ。でも君が堂々と問題を答え続けたら、間違いなくクラスの生徒は一目置くだろうね」
 あたしは言葉を失くす。
「何か問題があったら、俺になんでも言ってほしい」先生はポケットを探り、携帯を取りだした。「なんでも言いやすいように、アドレスを交換しておこう」
「あたし、携帯持ってない」
「え、あ……そうか。だったら、家に電話はあるでしょ?」
 あたしはうなずいた。このマンションにも、あたしの家にも電話はある。
 先生は手帳を取りだし、なにやら書き込む。紙を破いて、それをあたしにくれた。先生の携帯番号が載っていた。
「いつでも連絡していいから。別に相談事じゃなくても、先生ヒマー、って感じの電話でも構わないよ」
 先生がくれた紙を握りながら、実はずっと動悸がしていた。話せば話すほど、あたしは先生に惹かれていた。今こうやって話しているけど、電話で先生と話すなんて想像するだけで熱がこみ上げる。
「本音は戻ってきてほしいけど、無理強いはしたくない。このチェーンロックを開けるも、ドアを閉めて鍵を閉じるのも、最終的な選択は神楽さん次第だよ。考える時間がほしかったら、少しの間先生はここを離れるけど……どうする?」
 答えは決まっていた。この先生が学校にいるのなら、行ってもいいと思う。間違いなくここにいるよりマシだから。
 あたしはドアを閉める。チェーンロックを外し、ドアを開いた。
 そこに、先生の姿がない。
 あたしは靴を履き、外に出て、ドアの後ろを覗く。先生が突っ立っていて、笑っていた。
「ばれた?」
「そこしか隠れるとこないから、わかるに決まってんじゃん」
「ここから飛び降りたらもっと意外で面白かったかな?」
 あたしは笑ってしまう。「──面白くはない」
 ここにいる間、あたしもふと考えたことがある。十階のここから飛び降りてしまうことを。
「出てきてくれてありがとう」
 先生の微笑む姿を見つめながら、あたしも笑みを返してみる。
「ここからあたしを出したからには、責任もってよね」
「そのつもりだよ。君は俺の生徒だから」
 それはあたしにとって嬉しくもあり、悲しくもあった。

 学校側は母の連絡先を知っていて、それで先生はあたしの居場所を母から聞いたらしい。先生は帰ってきた母と少しだけ話し合い、「奈海ちゃんは責任を持って連れていきます」と言った。母は「娘をよろしくお願いします」と言った。そんなことを言って、本当は邪魔者が消えて良かったとでも思っているだろう。
 車内であたしはドキドキする気持ちを隠しながら、先生とお喋りをした。両親のことを喋り、クラス編成はどうなったかを聞き、自分の不安を色々と打ち明けた。先生は親身になって聞いていてくれた。
 あたしの住む町に近づいた頃、先生はお腹が空いたと言った。あたしも空いたと言うと、先生はご飯を奢ると言ってくれて、あたしは舞い上がった。そのあとホテルに連れて行かれることを連想して、勝手にそれを受け入れた。
 入ったお店は極ありふれたファミレス。それでもあたしは嬉しかった。好きな物を頼み、食べ物の味よりも先生を気にしながら食事した。
 あたしはよく吸っていたのだが、先生は煙草を吸わなかった。そういえば車内は先生の匂いしかしなかったな、と思いだした。
 ふと、あたしはあることに気づく。一人で先生との関係を妄想していたけれど……そもそも先生には彼女がいるんじゃないだろうか。指輪はしていないから結婚は──していないかもしれない。
 おそるおそる、あたしは口を開く。実際には平静な口調で発してみせる。
「そういえば先生、カノジョとかいる? 先生って、あんまりモテなさそぉ」
 本当は、モテると思ってる。気持ちを隠すためにそう言った。
 先生は軽く笑う。「これでもちゃんと付き合ってる人はいるよ」
 言葉が耳に入った瞬間、食事する手が止まりかけた。あたしは動揺を必死で堪える。
「あ、いたんだ。どーせ、ブサイクなんじゃない?」
 あたしの評価を下げてしまうような、よくない言葉だったと思う。
「ブサイクじゃないよ。とびきり美人ってわけでもないかもしれないけど。俺は少なくとも彼女を綺麗だと思う」
 やめてほしい。嫉妬が湧き上がってしまう。フォークを床に投げつけたくなる。
「テレビでみたことがあるかも」
「テレビ?」芸能人に似ているということだろうか。
「最近、よくテレビ出演するようになったんだ」
「もしかして芸能人?」
「芸能人じゃないよ。雑誌の編集者。オカルトオリジンって雑誌、知ってる?」
 どこかで耳にしたことがある。「わからない」
「じゃあ、恋呪は知ってるでしょ?」
 あたしはうなずいた。
「実はね、俺の付き合ってる人は、その恋呪を世間に流行らせた人なんだ。ハラサキカヨコっていう名前。眼鏡を掛けていて、テレビ越しでみるとすっごく理路整然としたお堅い雰囲気の人」
 全然わからない。恋呪を取り扱う番組を、気に留めてみたことないから、出演者の顔なんて記憶されていなかった。
「わからない。恋呪を扱う番組をまともに見たことない」
「わからないか……。でも、テレビに出てる人と付き合ってるなんて、先生も中々すごいでしょ?」
 あたしは無言でハンバーグを処理していく。
 ふと気づいて、咀嚼しながら言葉を発する。
「その人、どこに住んでるの?」
「東京だよ。だから、遠距離なんだ」
 咀嚼しながら、声を鼻に抜いて「ふーん」と発した。
「神楽さんは彼氏いる?」
「いる」
 なんでそんな嘘をついたのか自分でもわからない。
「そっか。学校の子?」
「違う」
 先生はさっきと同じく「そっか」と言い、それから少しの間、言葉が交わされなくなった。

 当然、ホテルになんか行かなかった。車は大嫌いなあたしの家に着いた。勝手にあたしの全てを捧げるつもりでいたんだけど、心が舞い上がって張り切った分、傷ついていた。
 先生は父に挨拶がしたいからと、あたしと一緒に車を降りた。家の引き戸を引くと鍵が締まっていて開かず、インターホンを鳴らして「お父さん」と呼んだ。いつもだったら「開けろよクソ親父」と言う。
 待っていると、父は玄関前までやってきた。
「行き場がなくてのうのうと帰ってきたか。お前にお父さんなんて呼ばれる筋合いはねえんだよ、恥さらしの不良娘が。いっそくたばっちまえばよかったのに」
 あたしは呆れつつ先生を見遣ると、先生は笑っていた。さっきまで憎かった先生だけど、その顔を見ていると、あたしもつられて笑みを作ってしまった。
「開けてよ」
「開けてほしかったらもっと丁寧に頼むんだな。ついでに、その汚ねぇ赤髪を黒くして、これからはおとなしく言うことを聞くと約束しろ」
 玄関を蹴破りたい衝動に駆られる。喉にたくさんの罵倒が溜まった。先生は、相変わらず笑っている。その顔を見るだけであたしは安心できた。
「神楽さん、夜分遅くすみません。俺は奈海ちゃんの担任の藤原と言います。お母さんのところにいた奈海ちゃんを連れて──」
 と、先生がそこまで言うと、鍵が開いた。勢いよく引き戸も開いた。
「先生がいらしてたなんて──こら奈海、そういうことはちゃんと言いなさい」
 父は他人の前だけ人が変わる。顔が真っ赤で、酒臭いのは隠せないけど。

 先生は父の肩をとことん持っていた。警察であることを褒め称え、媚びっていた。そのうえで、あたしが純粋で良い子だと言い張っていた。父は「ばけもんみたいな髪で世間様にはお見せできない」と言ったが、先生は「綺麗なロングストレートの見事な赤髪で、俺は神々しささえ感じますよ」と言った。父はそれを全面否定し、恥さらしだと言い張った。
「俺は教師という職業柄、色んな子たちを見てきましたが、奈海ちゃんは全然、おとなしい方です。決して恥さらしなんかじゃありません」
 先生はきっぱりとそう言ってくれたけど、父は「こいつのことを知らないだけですよ」と言った。「それもそうですね」と、先生は笑みながら返した。
 父は先生に酒を勧めようとした。「先生は車で来てんだよ、馬鹿じゃない?」とあたしは言ってやった。いつものように「親に向かって馬鹿とはなんだ」と返された。
「仲の良い親子ですね」
 先生にそう言われ、寒気がしてぶるっと震えた。父も「いいわけないですよ」と言った。
 先生は帰るとき、「今後ともよろしくお願いいたします」と父に言った。父は「こちらこそ、出来損ないの不良娘をお願いします」と言った。むかついたけど、何かが変わる予感がした。
 先生を見送るため、一緒に外に出た。車に乗った先生をじっと見つめていると、窓を開けてくれた。
「明日、学校来てよ?」
「うん」
「じゃあね」
 先生は手を振り、窓が上がっていく。
「先生」
 呼びかけると、窓は数センチほど隙間を残して止まった。
「どうしたの?」
 あたし、彼氏いるって言ったけど、あれは嘘。
 あたし、先生のことが好き。
 あたしを先生の家に連れてって。
 なんて、どれも言えなかった。
「あたし、明後日誕生日なんだ」
 代わりにそう言った。
「本当?」
「うん」これは嘘じゃない。本当の話。
「神楽さんは、明後日十五歳か」
「そうだよ。誕生日プレゼント、期待してる」冗談めかしで言った。
「先生こう見えても貧乏なんだよ。ケーキで許してくれる?」
「え、ケーキ買ってくれるの?」
「それくらいならいいよ。丸いバースデーケーキじゃなくて、三角に切られた小さいやつしか無理だけど」
「いいよ、なんでもいい。ありがと、先生」
 先生が微笑んで、あたしのときめきは最高潮に達する勢いだった。先生から視線を外せなかった。
「昔の風習ではね、十五歳が成人だったんだよ」
「そうなの?」
「俺の先祖が住んでいた場所ではそうだったらしい。毎年十五歳になった成人を集めて、成人の儀式が行なわれる。その日からは立派な成人としてみなされる。俺にとっては、ただみんな中学に通ってるってだけで、十五歳を迎えたらもう立派な大人だ」
「なら、あたしは明後日で大人になるの?」
「先生にとってはね。だからケーキは、神楽さんが成人になることへのお祝い」
 あたしは数度うなずいた。
「じゃあ。明日学校で」
 あたしは一度だけうなずいた。
 窓が閉まり、先生は手を振る。あたしも手を振り返して、先生は行ってしまった。
 一人勝手にときめいているけれど、我に返ると悲しくなる。先生はあたしを生徒としてしかみていない。先生の顔を思いだすだけで身体が火照るけれど、同時に胸の苦しさも感じた。
 これが、恋心なんだ。


  4


 できれば、もっと上手くいきやすい恋がよかった。初めての恋なのに障害が多すぎて、あたしには荷が重い。先生と生徒という関係。年齢差。すでに恋人がいるということ。
 あたしは今の状態をどうすればいいのか全くわからなくて、恋愛の迷子になっていた。

 先生が話をつけたのか、以前はあたしの髪のことを注意していたセンコーが何も言わなくなった。
 先生は国語の授業で、言っていたとおりあたしを当てたけれど、それは一回だけ。学校にいる間、アイコンタクトをとろうと先生を何度も見たけれど、あまり反応してくれなくて淋しかった。職員室に出向いても、先生は忙しそうにしていて全然相手をしてくれない。先生のことが好きな分、先生の心があたしに向いていないのが悲しくなるだけだった。
 学校が終わり、下校になる。先生とお喋りできるかと思ったら、先生はサッカー部の顧問に就いたようで、話せなかった。部活が終わるまで待ちたかったが、あんまりストーカーみたいに纏わりつくと嫌われるんじゃないかと思って、あたしは結局、家に帰った。

 先生はあたしだけの先生じゃない。そんなのわかってる。恋人がいるってこともわかってる。でも、あたしはこの想いを放置しておきたくない。
 考えた末に出した答えは、恋呪だった。恋呪を否定していたし、絶対にやるつもりはなかったけれど、今のあたしは低能なまじないにすら頼りたい。否定しながら結局のところ、恋呪に手を出した女の子はいっぱいいるだろうな、とあたしは思った。
 ただ、あたしが恋呪をするというのは、他の人たちと少し意味が違ってくる。だって、あたしが頼ろうとしている恋呪は、あたしが好きな人の恋人が流行らせたものらしいのだから。
 帰ってすぐに家を出て、本屋に行った。近くにある本屋は規模が小さいから、ないかもしれないと思っていたけれど、先生の言っていた月刊オカルトオリジンは置いてあった。立ち読みで済ませたかったのだけど、それはできないように白いビニール紐で縛られていた。
 あまりお金を持っていないけれど、仕方なく購入した。自分の部屋でじっくり読んだ。
 恋呪特集第九弾。もっといってるかと思ったが、意外に恋呪が登場して日は浅いようだ。そこには、恋呪を体験した人の話や、恋呪のルーツなどが書かれていた。恋呪のやり方や効果の出かたが詳しく説明されていた。記事を書いた人の名前を確認すると、「原崎夏陽子」と記されている。
 神社の写真が掲載されていた。「赤神神社」というらしい。そこは少し遠いけど、あたしの住む県内の山奥にあるようだ。神社の写真を見ていると、なぜか雑然とした思いが湧いていた。不安や憎しみなど、だいたいはマイナスなイメージ。あたしは、昔から神社というものが嫌いだった。特に理由はないんだけど毛嫌いしていた。神を信用していないし、存在を信じていないからかもしれない。
「藤原……サノスケ?」
 赤神神社の宮司の名がそういう名前らしい。先生と同じ苗字だ。その宮司の言葉がそこに書かれている。
『この赤神神社は縁結びの神社ですが、遥か昔、この社には赤い髪の巫女が住んでいました。巫女は人々の恋路を取り持つという不思議な力を持っていました。そんな巫女もやはり人の子。里に住む男と恋に落ちてしまい、それを巫女の両親が許さなかった。二人は駆け落ちしたのですが、後に捕まってしまい、男と巫女は引き裂かれてしまった。男は無残にも死刑になります。永遠に恋を叶えられなくなった巫女は自ら命を絶ち、巫女を引き離した両親や、里の者たちには、巫女の呪いがふりかかるようになった。そんな巫女の怒りを静めるためにこの社は赤神神社となったのです』
 恋呪というのは、巫女の力が現代に蘇ったものだという。巫女が自分の赤い髪を人々の左手の小指に結ぶと、たちまち恋が成就した。そうやって巫女はみんなを幸せにしていた。それなのに自分の恋は叶えられなかったなんて、可哀想だ。馬鹿な大人たちが無理やり巫女と恋人を引き離し、巫女は自殺。後に人々は赤い糸を指に結ぶようになった。一度そのまじないは廃れて、先生の恋人が再び世に流行らせた。そうして、人々になぜか巫女の力が宿るようになった。
 どうせ嘘話だろうけど、それでも恋呪を生んだ張本人の髪色があたしと同じという事実は嬉しかった。
 巫女の赤髪は地毛だろうか? それを知ろうと雑誌を読んでも、情報はどこにもない。他のページには怪奇話とか、呪いの人形で有名な島の話とかが載っている。どうでもいいのでそれは読まなかった。
 あたしの家には赤い糸なんてない。あたしの髪は染めた赤髪だけど、それを小指に結っても効果はあるんじゃないだろうか。そんな気がした。赤い糸だって染め上げられたものだし。
 あたしは自分の髪を一本抜き、それを左の小指に結んだ。藤原先生のことを胸いっぱいに想いながら。


  5


 ゆっくりと目を開いた。薄い掛け布団をまくりながら起き上がった。閉められたカーテンの隙間から、朝の白い光が入り込んでいる。
「夢だったんだ……」
 ひどくリアルな夢を見た。現実に目覚めた今でも、あれが夢だったとは思えない。
 古い時代の夢。そこであたしは、赤髪の巫女として崇められていた。誰もあたしの心をみてくれず、神聖な巫女として崇拝される。人々に自分の赤い髪を結い、幸せな縁を呼び込んでいた。
 巫女は軟禁された環境で育っていた。それは赤髪の巫女として崇められる前からで、どこかあたしと通じるものを感じた。息がつまる環境にいるからか、巫女は外の世界に思いを馳せていた。外の世界が知りたいと父親に話したところ、十五の成人を迎えたら社の外に出ることを許すといわれた。けれど、成人の儀式が終わっても、父親は外に出ることを許さなかった。
 先生の言っていた話と雑誌で読んだことが上手く合わさって、夢になっただけだろうか。成人の儀式のシーンで先生の面影を持つ人もいたし。
 それにしてもよくできていた。映像や話の筋がしっかりしている。普通の夢って、もっとグチャグチャなストーリーが多い。
 あたしは布団から立ち上がり、壁に掛けられたカレンダーを確認して、夢の中の巫女と同じ十五歳になったことを実感した。先生にとって、あたしは今日から立派な成人だ。
 先生がどんなケーキを買ってくれるのか想像しつつ、部屋を出ようと襖の引き手に指をかける。
「へっ!」
 小指が視界に入って、驚いた。そこにはあたしの赤い髪を結ったはずなのに、違うものが指に付いている。
 紛れもない、赤い指輪。
「うそでしょ……」
 顔元に近づけてじっくり眺める。どうみても赤い指輪。血の色みたいに真っ赤だった。右手で触れて質感を確かめても、布的な感じはしない。爪先で叩くと、チッチッチ、と音が鳴った。金属を弾く感触がした。
 指輪を摘まみ、引き抜いてみる──が、外せない。
「うわぁ、やばいよ……」
 完全に恋呪にかかった。
 恐ろしくなって、思わず後ろを振り返る。巫女の霊は見えない。抜け殻のような布団と窓と、右隅には勉強机があるだけ。
 怖いけれど、あたしはこれを望んでいたんだ。この力で先生との恋を成就させたいと願っていた。こうなったら一心不乱にとことん先生との恋に立ち向かってやろう。
「頼んだよ、恋呪」
 指輪を見つめながらそう言った。

 登校中、先生にアタックする方法がたくさん浮かんでいた。どれも実行してみたかったけれど、まずは先生にあたしの想いを伝えなければいけない。絶対に告白を受けてくれないだろうけど、それからどんどん押していこうと決めた。
 恐らく先生は、あたしの家にケーキを持ってきてくれるんだと思う。そう信じて、学校にいる間あたしはおとなしくしていた。髪の色以外は超が付くくらい真面目な生徒でいた。先生にアイコンタクトはしない。素っ気ないふうを装った。職員室にも出向かなかった。そうして、どこか暗い顔で居続けた。先生に気に留めさせるために。
 家で待っていると、夜の帳が下りた頃にインターホンが鳴った。父はまだ帰ってきていなくて、好都合だった。
 玄関を開けると、そこには学校で着ていた紺のスーツを身に纏う先生。
「十五歳の誕生日、おめでとう」
 全身が震え上がりそうなほどの喜びが湧き、満面の笑顔で「ありがとう!」と飛びつきたかったけれど、それは抑え込んだ。暗い顔をして、素っ気なく「ありがと」と言った。
「あれ、神楽さん、嬉しくないの?」
「うれしいよ」と、嬉しくなさそうに言う。
「ならもっと嬉しそうにしてくれてもいいところなんだけど……どうしたの? 何かあった?」
「なにも」
「なにも? 今日は学校でもずっと暗かったし、何かあったのかと心配してたよ」
 ちゃんとあたしを見ていてくれたようだ。
「先生には関係ないから」
 先生は少し間を置いて、「ああ」と、勝手に何かを覚ったふうに言った。
「彼氏からなんのプレゼントも貰えなかった、とか?」
 そういえばそんなくだらない嘘もついたっけ。
「ううん、彼氏からはプレゼント貰ったよ。ケーキなんだけどね」
「あ、俺と同じなんだ。そりゃ……残念だったね。じゃあどうする? これいる?」
 先生はケーキの箱をあたしに差しだす。あたしはそれを無言で受け取った。
「お父さんの分もあるから。ちゃんと二人で食べてね」
 絶対イヤ。せっかくのケーキが台無しになる。
「先生、一緒に食べようよ」
「俺はいいよ」
「そう……」
「お父さんはいるの?」
 あたしは首を振る。
「まだ帰ってきてないか」
 あたしは小さくうなずく。
 言葉が消えて、数秒の無言。
「先生、もう帰るよ」
 あたしはケーキを玄関脇の棚に置いて、先生に手を振った。
「わざわざ約束守ってくれてありがとね」
「そりゃ、先生だからね。生徒との約束はちゃんと守るよ」
「あたしね、今から彼氏の家に行くの」と、唐突に言ってみせた。
「え、こんな時間に?」
「うん。いけない?」
 先生は若干ためらって、「いや、いけなくはないよ」と言った。
「彼氏の家に泊まるつもり」
 先生は言葉なく、小さく数度うなずいた。
「どんな彼氏と付き合ってるか知らないけど、男関係には気をつけるんだよ」
「先生には関係ないよ」
 一瞬、先生が表情を強張らせた。
「そうだけどさ。先生として、心配なだけだよ」
 あたしは意味もなく微笑む。
「じゃあね、神楽さん。気をつけて」
 先生が手を振った。あたしも手を振った。
 先生は振り返り、玄関から離れていく。あたしは足音をたてずに一歩外に出て、玄関を閉めた。先生はこちらを向かず、あたしが外に出ていることには気づかない。
 いっぱいプレッシャーは与えた。きっと今先生は、煮え切らないような感情を抱いていることだろう。
 あたしは駆けだす。先生の背中に向かって。
 先生が顔だけこちらを向けたとき、あたしの全身が先生にぶつかった。先生は前方に軽くよろけて、あたしは先生の身体に手を回す。ぎゅっと抱きつく。
「──神楽さん? どうしたの?」
「先生、好きです」
「え?」
 先生の背中に頭を擦り付ける。
「本当は先生のこと大好きなの」
「俺? 好きって、それは──」
「愛の告白だよ」
 先生は言葉を失った。あたしは纏わり付くように、更に身体を寄せる。
「彼氏が、いるんじゃないの?」
 口調に動揺がみられた。作戦は上手くいったようだ。
「いないよ、全部嘘だから。しいて言えば彼氏は先生」
「俺は──先生だよ。君は生徒だ」
「好きなったら、そんなこと関係ない」
 再び先生を沈黙に落とした。あたしはそこに畳み掛ける。
「ひと目惚れだったの。お母さんのマンションで顔みた瞬間、全身が先生のこと大好きって言ってた。先生の性格も、あたしのタイプ。お願い、あたしと付き合って」
「それは、でき──」
「わかってる」言われる言葉を遮る。「先生には原崎夏陽子っていう恋人がいるもんね。でも、だからって諦めたくない。もうすでに誰かのものだからって、引き下がりたくない。そう思ってね、左手の小指に、あたしの赤い髪を結ったよ」
 先生はあたしの小指に触れてくれた。
「先生にはただの赤い髪にしか見えないでしょ」
「ああ……」
「あたしには真っ赤な指輪に見えるの。糸じゃなくても、赤い髪の毛でもいいみたい」
「そうなのか……」
 あたしの指を触る先生の手が離れる。
「なんなら、あたしは二番目の女でもいい」それから一番に成り上がってみせる。「あたしを恋人にしてください」
 そう言ってみせると、沈黙に入った。おそらくこれは断られるだろう。
 再びあたしの左手が握られた。小指に触れられ──そこで予感がして、バッ、と先生から離れた。
「……あたしの赤い髪を外そうとしたでしょ?」
 先生はゆっくりと振り返る。「恋呪は危ないよ。やめたほうがいい」
「先生が付き合ってくれるのなら、やめるよ?」
 小さな溜め息が聞こえた。先生は首を振る。
「交際してる人がいるんだ、俺は彼女を裏切りたくない」
 あたしは親指の爪をグッと噛んだ。
「ごめん」
 指を口から離す。「先生、好き」
「ごめん……」
「先生は、あたしのことどう思う?」
「……大切な生徒だよ」
 先生の胸元に、あたしの身体をぶつけた。抱きついた。鼻で先生の匂いを肺にいっぱい吸い込み、口から息を吐く。
「この恋は叶うまで、絶対に諦めないから」
 先生の胸が動く。小さく息を吐いた音が聞こえた。
「俺は、恋愛対象として神楽さんを見れないよ。この先ずっと」
「どうして?」
「だって、先生が生徒に手を出しちゃいけない。ましてや君はまだ中学生」
 バッと顔を上げた。鋭い眼差しを先生に向けた。
「先生矛盾してる。先生にとって十五歳はもう立派な大人なんでしょ? あたしはただ中学校に通ってるってだけで、もう立派な十五の女なの」
 先生はばつの悪そうな顔をした。
「あたしの身体、まだけがれてないんだよ。でも先生だったら初めて捧げられるし、赤ちゃんも産める」
 ふと思いついて、先生の股間に手を伸ばす。しっかりと反応しているようだった。
「あたしね、街で無理やり男に犯されそうになったことが何度もあったの。そんなふうにバージン失くすの絶対嫌だったから、大嫌いな警官の父親を盾にして、そういうの切り抜けてきた。でもいつか抵抗できなくて、ヤられちゃうかも。だから、キモイ奴にヤられる前に、先生に捧げたい」
 先生はあたしの両肩を持った。押されて、引き離された。股間に当てている手を掴まれて、それも離された。
「もっと、まともな──ちゃんと恋愛ができる人にそれは捧げたほうがいい」
「綺麗事いわないで。先生タってた。あたしとヤりたいんでしょ?」
 先生は首を振る。「本能的に反応はするが、したいとは思ってない」
「うそつき」
「嘘じゃない。もっと自分を大事にしろ。心から愛してくれる相手に捧げなさい」
「心から愛してくれるその相手は、あたしの好きな人じゃない──あたしの好きな人は先生ただ一人なの! 絶対先生じゃないと嫌!」
 先生は顔を歪めた。「小指の糸を外そう」
「糸じゃない、あたしの髪の毛。それに外す気なんてない」
「先生は、神楽さんを一人の女性として心から愛さない。諦めてほしい」
「絶対諦めない。想うことはあたしの自由でしょ?」
 先生が言葉を詰まらす。開いていた口が、閉じた。田圃に住む蛙の鳴き声がよく聞こえる。
 あたしの肩に乗っていた手が離れ、先生は「おやすみ」と言ってきた。
 もう少し攻めてもいいけれど、今日はこの辺で引こう。
「ひっ……うぅ」
 あたしはうそなきした。息苦しそうにもしてみせた。
「神楽さん」
 先生があたしの肩に手を置く。無言でそれを払いのけて、先生に背を向け、何も言わず玄関を開け、中へ入った。怒ったように引き戸をピシャリと閉めた。右側の棚に置かれたケーキの箱を持つ。後方の音に意識を集中する。
 やがて、車のエンジンがかかる音がした。車は去っていった。あたしはふっと笑みを零す。その場で箱を空けると、様々なケーキが四つ入っていて、その中の一つに「十五歳の誕生日おめでとう」と書かれた四角いチョコレートが刺さっていた。嬉しすぎて、溜め息が漏れてしまう。
 さて、ゆっくりケーキをいただこう。


  6


 パッと目を開けた。いつもの茶色い天井、蛍光灯が視界に入り、こちらが現実だと知って少し安堵した。掛け布団をゆっくりまくり、起き上がる。閉められたカーテンの隙間から、若干赤みの差す朝陽が入り込んでいる。
「まただ……」
 昨日と同じ時代の夢を見た。あたしが赤髪の巫女になって、人々から崇拝される夢。上手い具合に昨日の続きだった。
 あたしは十六になって、巫女専用の社が建てられた。そこで赤髪の巫女としての勤めを果たし続けた。
 ある日、あたしのところへ赤髪を結うため、一組のカップルがやってきた。
「サノスケとカヨコ……」
 そんな名前だった。サノスケ、というのはどこかで聞いたことがある。
 ふと思いだし、オカルトオリジンを手にする。神社が載っているページを開いた。
 宮司の名前は、藤原佐乃介。
 この特徴的な名前が引っかかって、夢の登場人物になっただけかもしれない。サノスケ、という人は先生に似ていたし。
「そういえば──」
 思いだした。昨日の夢の、成人の儀式にもサノスケはいた。お相手のカヨコもそこにいた。あんまり可愛くない。生真面目そうな顔の女。
 と、そう思ってまた引っかかった。連鎖的にもう一つの一致を思いだし、ページを開いた。恋呪の記事を書いた人の名前。先生の、恋人の名前。
 名前を見つけると、やはりそうだということがわかった。
「原崎夏陽子……」
 カヨコという名前は同じ。あたしがそれだけ、先生と「夏陽子」のことを気にしすぎているだけだろうか。
 現状、ただのリアルすぎる夢としかいえない。夢の巫女は今のあたしと同じように、先生に似た「サノスケ」に想いを寄せていたし。

 持続的なアピールはしない。あんまり激しく好意を寄せられると、人は引きたくなるものだから。適度に離れた方が良い。
 今日もあたしは、髪の色以外真面目な生徒でいた。元気のない装いで、何もしていないときは席で頬杖をついて、ただぼうっと先生のことを想った。
 放課中、あたしの悪口を言う奴がいた。前友達だったギャル気取りの女。金髪を強制的に黒髪にされて、どうしてあたしだけ赤に染めていることが許されているのか、と不満を囁いていた。
 あたしはただセンコーらの言いなりにならなかっただけ。許されたのは、赤髪を頑として貫いた結果。中途半端な奴らはセンコーの作ったくだらない枠にハマってろよ、と心の中だけで思った。
 学校にいる間、藤原先生と一度も口を聞かなかった。廊下でたまたますれ違って、先生に呼びかけられもしたけれど、無視した。
 一応、家事は全てあたしがやる。というか、父は絶対にやらないからあたしがやるだけ。家に帰ってきて酒を飲んで暴れて寝るだけのクソ親父だけど、養ってもらっているのは事実だし、掃除、洗濯、炊事はあたしがやっていた。
 今日の父は比較的おとなしく、夕飯を食べた後はソファーで酒を飲みながら野球を観ていた。おとなしくなったのは先生のお蔭かもしれない。先生が来た日以来、父はあまりうるさく言わなくなった。
 そのうち父はテレビをつけたまま眠った。それを確認すると、あたしは玄関へ行き、棚の一番手前に置いてある電話を使って、先生に電話した。
「もしもし? 神楽さん?」
「そうだよ」
「どうしたの?」
「ヒマだから電話した。先生、電話していいって言ったし」
「うん、言ったね」
 言葉を止める。先生の反応を待ってみる。
「お父さんはどう? 相変わらず暴れてるの?」
「ううん、ちょっとはマシになったよ」
「そっ。よかった」
 あたしは電話の黒いコードを人差し指に巻きつける。
「先生、正直に答えてほしいんだけど、原崎さんとは上手くいってるの?」
「いってるよ」と、すぐ返事された。「先生もいい歳だし、結婚も考えてる」
「ダメ」
「ダメ?」
「うん、結婚しちゃだめ。先生はあたしと結婚するんだから」
 ふっと笑う声が耳に入る。
「もっと若い人を探したほうがいいよ。神楽さんと先生は歳が離れすぎてる」
「関係ないってば、その考え古い」
「古いよ? 先生はおじさんだから」
「そういえば先生って何歳なの?」
「あ、言ってなかったね。先生は、三十五歳だよ。神楽さんとは二十も離れてる。大人一人分も離れてるよ」
「世の中には四十歳離れた夫婦もいるよ。たいしたことないって。原崎さんはいくつ?」
「二十八歳」
「先生、あたしを選ぼうよ。あたしの方が若いし、あたしの方が先生を愛せる自信もあるよ」
「そんなこと言って……仮に付き合ったとしても、そのうち神楽さんは同世代の若い人に心変わりするよ」
 先生が、ついに隙をみせた。この言葉でそう強く感じられた。
「先生はあたしのことみくびってる。だったら今すぐあたしを抱きにきてよ、避妊なんてしなくていいから。なんなら、先生の家で、あたしが妊娠するまで軟禁して。それで来年、結婚しよ。もし何か問題になっても、あたしが全力で先生をかばうし」
 先生が、沈黙した。あたしは小さな勝利を収めた気がした。
「あたし、ウチの家事とか全部やってるから、邪魔にもならないよ。掃除も洗濯も料理も全て任せて」
「神楽さん、俺は、彼女を裏切りたくないんだ。頼むから、俺のことは諦めてほしい」
「じゃあ先生、明日ヒマ? 学校休みでしょ?」
「えっと、休みだけど、先生は部活の顧問やってるから。明日も学校だよ」
「じゃあ学校終わってからでいいから、会ってよ」
「忙しいからだめ」
「なら明後日は?」
「明後日は明後日でやることがある」
「原崎さんと会うの?」
「いや、会わないよ。会いたいけど、彼女も仕事で忙しいから。日曜の二時からやるミステリー番組に出演するんだってさ」
「あ、ホント? それって生?」
「そう、生放送。いまや彼女は恋呪を取り扱う番組で引っ張りだこなんだ。日本で一番恋呪に詳しい人だからね」
 声を鼻に抜いて「ふーん」と言ってみせる。
「視聴者からも人気があるみたいだよ。淡々と適確なことを喋って、ときどき天然ボケをかまして可愛らしく笑うことがよくあるんだ。ツンデレっていうの? そういうキャラが受けてるみたい」
 あたしとは合わなさそう。淡々と自分が説教される様子が思い浮かんでしまう。
「先生は、その人のどこが好きなの?」
「どこ? んー……」
 先生の唸り声が消えた。本当はあまり好意を寄せてないんじゃないだろうか。
「部分的な指摘はできないよ。全部が好きなんだから」
 嫉妬が湧いて、つい電話のコードを握り締めた。
「先生はお堅い真面目なタイプが好き?」
「いや、彼女が好き。好きになった相手がそういう性格だっただけだよ」
 やめてよ、と口をついて言葉が出そうになった。嫉妬心が溜まりすぎて、言葉を吐けなくなった。
 数秒ほど無言が続く。
「神楽さん」
「なに?」
「神楽さんは勉強が良くできるし、先生という立場を抜きにして言わせてもらえば、笑った顔がとっても似合っていて可愛い女性だと思うよ」
 勝手に笑みが零れて、とろけそうなほど熱がこみ上げた。
「普段の顔わぁ?」
「普段の顔も──神楽さんはどちらかというと色白で、どこか神聖な雰囲気を醸しだしてるから、それでとても綺麗に見えるよ」
「ありがとっ」
「暗い顔してたら勿体ないよ。笑顔で過ごせたら、俺なんかより良い人はすぐにつかまる」
「先生より良い人はあたしの好きな人じゃないってば」
 うっ、と呻く声がした。
「とにかく、神楽さんが暗い顔してると、俺は胸が痛い。付き合ってあげられないけど、先生は神楽さんのこと、好きだから」
 ガチャ、と受話器を下ろした。強制的に切ってあげた。むかついたからそうしたわけではない。こうすれば、先生の興味を一段とあたしに向けられる気がした。


  7


 バッ、と起き上がった。薄い掛け布団を軽く飛ばす勢いだった。
 閉められたカーテンの隙間から、オレンジ色の朝陽が入り込んでいる。まだ陽は昇ったばかりのようだ。
 また、同じ時代の夢を見た。見るだろうと思っていたが、展開は予想外だった。いや、あたしの願望がそんな展開にさせたのかもしれない。
 先生に似たサノスケという人は、あたし──じゃなくて、赤髪の巫女のことを好きだった。両想いだった。サノスケに結った赤い髪の力は、巫女に対して発動していた。巫女も自分に赤い髪を結い、お互いが恋呪にかかった。そうして、駆け落ちした。
「あれ、この展開って……」
 そういえばオカルトオリジンに載っていた。ということは、あたしの夢は雑誌の内容をなぞっているだけなんだ。
 それにしても、激しくリアルな夢だった。サノスケとあたしは、貧相な小屋で愛を交わし合っていた。あたし自身まだしたことないのに、まるでセックスしているような体感を得ていた。
 それから、町に着いた。旅人たちが身体を休める宿場町。雑誌にも、二人は宿場町に逃げた、と書いてあった。そこでサノスケが指輪をくれた。
「指輪?」
 サノスケは、赤い髪が解けてしまわぬよう、小指用の指輪をくれた。そんな話は雑誌に載っていない。
 左手の小指に目をやる。そこには変わらず、吸い込まれそうな真っ赤な指輪がはまっている。呪いは継続している。
 サノスケがくれた指輪は、こんな赤い指輪じゃなかった。ちょっと汚い銀の指輪。
「はあ……」
 溜め息が漏れた。意味がわからなくて、あたしの頭はパンクしそうだ。そもそも意味などないのかもしれない。
 夜に宿屋でも巫女とサノスケは愛し合った。愛されていることが骨の髄まで実感できて、あたしはめちゃくちゃ幸せだった。けれど翌日、追っ手に捕まった。雑誌のストーリーと同じ。サノスケはあたしの目の前で、気絶するまでボコボコにされた。そうして住んでいた社に戻されて、あたしは蔵の中に閉じ込められた。そこで夢が終わった。
 あたしは結末を知りたくて、オカルトオリジンを手にする。本当はどうなるか覚えているけど。
 雑誌を開き、確認すると、やはり悲しい結末だった。サノスケは処刑され、巫女は自殺する。つまり明日の夢は、あたしが自殺して終わるんだ。……いやだなぁ。見たくない。

 学校がないと暇だ。前は行きたくなかったのに、今は先生と会うために学校へ行っている。それだけがあたしの全て。だから明日も学校がないなんて、考えるだけで気が狂いそうになる。月曜が果てしなく先に思える。
 あんまり暇だから、あたしは学校へ行った。
 ウチの学校のサッカー部がどれほど強いかは知らないけれど、朝から練習していた。生徒たちがグラウンドを走り回り、中心に先生がいた。会う気はない。会ってはいけない。昨日のあたしに悩まされていてほしいから。
 あたしは校庭の隅で先生を眺め続けた。部活は昼を跨ぎ、夕方まで続いた。



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