第四話 「大好き」‐橘 秋恵‐ 嫌だ、たっくんが他の女のモノになるなんて、あたしは認めない! 絶対、取り返す。彼以外の男なんていらないんだから。彼以外の男なんて、必要ないんだから。 彼は世界一かっこよくて世界一優しくて、世界で一番あたしを愛してくれた。世界で一番、あたしを理解してくれた。 あたしだって、世界で一番彼を理解していた。世界で一番、彼を愛せる女だったはず。 彼がふさぎ込んでいるとき、いつもあたしは彼が頑張れるよう、必死で言葉を投げかけていた。必死で愛していた。彼が体調を崩しているとき、あたしはいつも一生懸命看病した。 反対にあたしが辛いとき、彼はいつも慰めてくれた。あたしの体調が悪いとき、いつも優しく看病してくれた。時々料理を作ってくれて、時々家事もしてくれて、いつもあたしに対する気遣いに溢れていた。 あたしには、彼しかいない。彼しかいらない。 彼しかあたしを理解できない。あたししか、彼を理解できない。 彼だけがあたしの全て。 1 彼氏から突然別れを告げられた。 山を彩る紅葉さえるころ、あたしは最愛のヒトを友達に寝取られた。 大好きだった。大好きで堪らなかった。こんなにも好きなのに、こんなにも愛してるのに、絶対に想いの力では誰にも負けない自信さえあったのに……あっさり彼は友達の下へ行ってしまった。 意味がわからない。あたしは二年間、彼に尽くしてきたはず。しかも一年間同棲をしていた。一緒の時間を過ごし、一緒に笑い合い、愛し合い、時にケンカをしてぶつかり合ったけれど、そうやって分かり合っていって絆を強くしていったはず。永遠の愛だって誓い合った。それなのに、裏切られた。 あたしの何がいけなかったの? 外見? カラダ? 確かに、友達の方が良いカラダをしている。でもそれだけじゃないはず。やっぱり最後には、想う力のほうが勝つはず。 必ず取り返す。何としてでも、あたしの傍に彼を置いておきたい。 2 バイト終わりのその日、たっくんを寝取った元友達のアパートを訪ねた。けれど誰も出てこない。おかしい。たっくんは今日、仕事は休みのはず。あたしの存在がバレて居留守を使われているのだろうか。 何度もしつこくインターホンを鳴らした。聞き耳を立てて中の様子を窺った。けれど、何の反応もない。いないみたいだ。 だからドアの前で待つことにした。時折立ち上がって二階から辺りを見渡した。そうやって待つこと約一時間。すっかり真っ暗になった頃、 「アキ──」 「 二人揃って巣に帰ってきた。 「なにって、たっくん待ってたの」 「もう終わったんでしょ? いい加減、諦めなさいよ」 「嫌だ。ねぇたっくん、本当のこと言ってよ、そのオンナに騙されてるんでしょ? なんか脅されてるんでしょ?」 たっくんは小さな溜め息をついて目を逸らした。 「何も言わないってことは、やっぱりなんかあるんだ?」 「人聞きの悪いこと言わないでよ、 「アキ」 たっくんがあたしを呼んだ。「なぁに?」とできる限りの愛らしい口調で返事をする。 「お前のことは好きだったよ。お前の、俺を懸命に想ってくれる気持ちが好きだった。でもさ、アキにはそれだけなんだよ。アキは気持ちを俺に押し付けてるだけなんだよ」 意味がよくわからない。「それが普通でしょ? 愛したらいけないってこと?」 「そういうわけじゃない」 「じゃあどういうわけ? たっくんはあたしを愛してるってゆってくれてた。あたしはたっくんを誰よりも何よりも愛してる。それなのにどうして」美奈子を人差し指を向ける。「たっくんはこのオンナの下に行っちゃったの?」 たっくんはまた小さな溜め息をついて、目を俯かせた。絶対、言い訳を考えてるんだ。 「お前じゃ、癒されないんだよ」 「どういう意味?」 たっくんの目があたしに向く。 「押し付けて求めすぎるお前に疲れてたんだよ」 あたしの胸にはすぐさま反論の言葉が溜まる。 「そのクセ、アキは俺のこと何にもわかってくれない。お前が勝手に突っ走ってるだけなんだよ」 「何よそれ、あたしはたっくんのことわかってたよ、それにいつもたっくんを理解しようと必死で努力をしてた」 たっくんはまた目を逸らした。 「たっくんはこのことをわかってくれない。どうして?」 目を逸らしたままたっくんは動かない。何も言えないんだ。 「悪いけど、俺じゃお前を受け止めきれない」 「──無理に受け止めてもらわなくったっていいんだよ? あたしがたっくんを受け止めるから」 「アキには」たっくんの目がこちらに向く。「俺をわかってくれる包容力がない。ワガママで子供じみてるんだよ。美奈子と知り合ってそれがよくわかった」 「そういうことだよ、秋恵。だいたい秋恵の方が良かったら拓哉が私のところへ来るはずがない」 言葉が一杯胸に溜まる。 「もがきすぎだよ。諦めて」 その一言でどうしてか、溜まった言葉が封印されてしまった。何も言えなくて、ぎゅっと拳を握った。歯も食いしばっていた。 二人がこちらに向かってくる。あたしは動かない。 「退いて秋恵」 言葉を吐きだせないから、じーっと二人の目を見た。美奈子の目を四秒。たっくんの目を五秒。それで退いた。 「ごめんな」 たっくんがふいに謝ってくれて、めちゃくちゃ嬉しくなった。 「あたしもごめん、愛してるよ」 「拓哉がそういう優しさをみせるから秋恵が勘違いするんだよ?」 その言葉はあたしを憤らせた。 「美奈子はなんもわかってない。たっくんはすっごく愛情溢れるヒトで、ちゃんとあたしを今でも想ってくれてるんだよ。そうでしょたっくん? あたしはたっくんの愛情の深さを誰よりも理解してるんだから」 たっくんが「はあ」と露骨な溜め息を吐く。 「なに、その溜め息」 「いや……」と、たっくんは一度目を逸らして、あたしを見た。「今は、美奈子の方を愛してる」 「でも、あたしのことも愛してるよね? 愛してないわけない。たっくんはそう簡単に想いを踏みにじるようなヒトじゃない。あたしよく知ってるんだから」 「拓哉、はっきり愛してないって言ってあげなよ」 「たっくんはウソつけないから言えないよ」 たっくんはあたしと美奈子を見て、髪を触った。困ったときに髪を触るのはたっくんの癖だ。あたしはその癖が大好きだった。 「拓哉、愛してないってゆって。言わないんなら私のアパートから出てって」 放りだされるたっくん。あたしは大急ぎで拾いにいく。 「それでまたあたしのアパートに戻ってきてよ! ねぇ、たっくん」 たっくんは髪を触っていた手を下ろし、またふうっと溜め息をついた。 「ごめん、アキのこと愛してない」 違う。これは言わされてるだけだ。 「拓哉は私だけを愛してるの。わかったらもう帰ってよ」美奈子がたっくんの手を取る。「入ろっ」 引っ張られていくたっくんの左手を、あたしが掴んだ。 「たっくんのこと大好きだからね」 たっくんはあたしを見てくれて、物悲しそうに目を俯かせた。 「離してよ秋恵」 「たっくんが離せって言ったら離す」 「アキ、離して」 「はぁ〜い」仕方なく離した。そうしてたっくんに手を振る。「またね、たっくん」 けどたっくんは振り返してくれず、美奈子の“巣”に入っていった。バタン、と扉が閉まって、二人の足音が奥へと消えていった。 絶対、取り返す。死ぬまで諦めない。 いや、死んでも諦めない。 3 「では今日のゲストをお呼びします。恋呪を発見し、いち早く雑誌に掲載したオカルトオリジン編集長の 「ワタシの友人が、そういったおまじないが古くから存在していた、と言っていたのです。赤い糸を小指に巻くなんてまじない、幼稚で古典的過ぎて普通誰もが笑い飛ばすでしょう。ですがワタシは、ワタシの直感は、囁いたのですよ。これは調べてみるべきだと。そこで、まじないの調査を部下の原崎君に命じたのです」 「なるほど。編集長の友人からの噂が発端だったんですね。改めてお二人にお聞きしたいのですが、恋呪にかかると、いったいどのような効果を受けるのでしょうか?」 ヒゲ面の、身体の大きい編集長と呼ばれる男がごほん、と咳払いをする。 「恋愛面で積極的になれます。これは恋ごとに悩む者の、救いのまじないです。昨今、恋愛に対して積極的になれず悩む若者が増えていると聞きますが、そんな者のためにあるまじないだといっても過言ではありません」 「それにしては過剰な行動にでる人や、狂気に落ちるような人もいるようですが、そのことについてはどう思われますか?」 「それくらいが丁度いいんですよ。欲求不満で反社会的な行動を起こしてしまうよりは、よほど良い」 「そうですね。確かに、自分の想いを抑えつけている人にとって、恋呪は救いのまじないだと思います。えっと、調査をしたという原崎さんにお聞きしたいのですが、恋呪にかかった人の中に、赤い糸が赤い指輪に見えてしまう人がいるようですが、そのことについて何かわかることはありますか?」 原崎と呼ばれた眼鏡の女性が、こほん、と咳払いをする。 「それに関しては現在調査中ですが、わかることは、その指輪が恋呪にかかった証だということです。糸にしか見えない者よりも、何倍も恋呪の力を感じられるそうです」 「我々もまだまだ調査段階に過ぎませんので、わかったことはこれからも当雑誌、オカルトオリジンの方で追って報告していきたいと思っています」 「そうですか。では今後の恋呪特集が楽しみですね」 ……我を忘れて、テレビに見入っていた。 レンジュ? 赤い糸? なんだそれ……。 ケータイで検索して調べると、色んなところにその情報は載っていた。 恋の呪い。恋呪。その呪いにかかってしまえば、自身の持つ一切の抑圧から解放され、恋を成就させるために一心不乱になれる。恋を成就させるためのあらゆる手段が思いつくようにもなる。やり方は簡単。赤い糸を、左手の小指に結うだけでいい。蝶結びが一番好ましいが、一人でやる場合はこま結びでもいい。中にはかからない人もいる。自分の気持ちを抑えつけている人はかかりやすい。 「あたしは、抑えてることなんてない……」 それに、恋はもう成就させている。たっくんは想いの強さの違いで美奈子の方にいったんだ。だからきっとあたしは、恋呪にかかれない。 でも、少しはなにか、効果を得られるかも。もっとたっくんのために一心不乱になりたいと思ってるし。今よりももっと、激しくたっくんのことを想いたい。 こんなにも大好きで大切な人と、離れたくない。 あたしは手先が器用でお裁縫は得意分野だった。料理も得意だ。たっくんに何度「アキの料理はおいしいよ」と言わせたことか。破れたたっくんの服を綺麗に直してあげたこともあった。たっくんはそんなあたしをすごく褒めてくれた。 なんとか頑張って蝶結びを完成させる。そうして、たっくんに永遠の愛を誓った。 4 「なにやってんだよアキ」 アパートのドア前で、体育座りで待ち続けて約二時間。ようやくたっくんが帰ってきた。あたしは、弱った虚ろな瞳を演じる。 「おかえりぃ……」 「おかえりじゃないよ、いつから待ってた? 今日バイトは?」 「三時から待ってたよ。バイトは休んだ。だって、今日はあたしたちが同棲を始めて一年目の記念日だもん」 「はっ? 俺たち、もう同棲してないだろ」 「そうだけど、でも一年目であることは変わりないよ? たっくんのだぁいすきな煮込みハンバーグたくさん作った。もう冷めちゃってると思うけど、あたしたちの家で一緒に食べよ?」 「やめろよ、なんでそんなことしたんだよ」 「だから、一年目の記念って言ったじゃない」 「お前、おかしいぞ」 あたしはスッと立ち上がる。 「おかしくない、たっくんが大好きなだけ!」 大げさな声量で言った。 「迷惑だよ」 「迷惑? ごめんなさい……。じゃあ」持ってきた箱を差しだす。「これも迷惑かな?」 「なんだよ、それ」 「たっくん、誕生日にあたしが作った手作りケーキおいしいって言ってくれた。だから作った」たっくんの前まで歩く。「食べてください」 たっくんはじっと箱を見て、あたしに目を向けた。 「受け取らない」 「どうして?」 「もうアキの想いを受け取れない。本当にお前だけのことを想うヤツを探せ。俺はお前に相応しくない」 「それ決めるのはたっくんじゃなくてあたし!」 たっくんは驚いて身を引かせる。 「あたしにはたっくんしかいないの! たっくん以外のヒトなんていらない!」 「男なんていくらでもいるだろ、日本は若い女より若い男の方が圧倒的に多いんだぞ」 「嫌だ、たっくんしかヤダ!」 「落ち着け、声を抑えろ──」 「たっくんがいい! たっくんがいい!」 「わかったから落ち着けって──」 「わかった? あたしのところに帰ってくる?」 「帰らないって……」 たっくんの壁は容易に貫けそうにないみたい。 「なら、せめてケーキを受け取って? 一生懸命、時間かけて作ったんだよ」 「お前の想いが込もったものは、受け取れない」 「……受け取ってよ」 「美奈子を裏切りたくないんだよ」 「……そっか。そうだよね。ケーキの真ん中にね、『アイラブたっくん』って文字が入ってるの。飾りつけとか、一生懸命たっくんのことを想って作ったんだけど……そうだよね。なおさら受け取れないよね。わかった」 あたしはたっくんに精一杯の笑顔を見せる。たっくんは目をそらした。 差しだしている両手を、外側にパッと広げる。あたしの動作に気付いたたっくんは驚き、ケーキの箱が垂直に落下してドサッと地面にぶつかった。 「おい!」 「なぁに?」可愛げな声を出して首を傾げてみせる。 「なぁにって、それどうするんだよ」 「受け取られなかったからこうするだけ」 右足を上げる。何のためらいもなく、ケーキを箱ごとグジャと踏み込んだ。何度も足踏みをする。純白の箱は見る見る薄汚れてぺしゃんこになり、それを笑顔で踏み続けた。 「やめろ!」 たっくんが動いて、あたしを抱きしめた。 あたしも迷わずたっくんに縋りつく──求めるような声を喉の奥から出す。 「たっくん、たっくん!」 「アキ、もう俺のことは忘れてくれよ……」 「ヤダ、誰よりも好き、誰よりも愛してる!」 「お前は、『愛してる』を俺に押し付けてるだけなんだよ」 「それが普通じゃないの?」上目遣いでカレを見た。 「俺がお前に愛してる気持ちを押し付けたことあったか?」 あったような、ないような。 「アキは押す気持ちが強すぎる……俺は受けきれない」 「じゃあどうしたらたっくんに愛されるの?」 じっとたっくんの目を見て答えを待った。けれど、人が視界に入った。階段を上ってきて、あたしらを見るやピタリと足を止めた。あたしはさらにたっくんにぎゅっと縋ってみせる。 「なにしてんの拓哉……」 すぐにたっくんは後ろを振り向いた。 「美奈子──」 たっくんはあたしを離そうとするけど、あたしは離れない。 「離れろよアキ」 「たっくんから抱きしめたクセして」 「それは仕方なかったからだよ」 「言い訳ばーっかり。たっくんはいっつも言い訳上手だね」 「わけわかんないこと言うなよ、離せ」 ぎゅーっと抱きついて、あたしは目を閉じた。 「どうして秋恵を抱きしめてるの」 美奈子がコツコツとヒールを鳴らしながらこちらに向かってくる。 「仕方なかったからだよ」 「仕方ない? どうせまた中途半端に優しくしちゃったんでしょ? そんなんだから──」 「そこがたっくんの良いところだもん」 美奈子の足がピタっと止まった。 「そんなんだから、いつまでも秋恵が離れられないのよ!」 美奈子はこの温もりを独り占めしたいだけなんだ。 「私を本当に愛してるなら、秋恵を突き放して。それができないのなら、私の前から消えて」 どうして美奈子がそう言えるのかがわからない。それだけ美奈子は心の小さな人間で、あたしより想いが弱いんだ。 「あんなこと言う美奈子より」上目遣いで惹きつけるように言う。「たっくんはあたしのところに帰ってきたほうが幸せになれるよ?」 たっくんはじっとあたしを見つめ、あたしの両肩に乗っているたっくんの手の、押す力が強まって──まるで、突き飛ばされるように押しだされた。 ……どうして? 転げるほど強くはなかったけれど、わざと大げさによろけて本気で転んでみせた。頭を打った。 「いっ、たい……」 できれば気を失いたかったけれど、そこには至らなくて残念だ。 「これでいいだろ」 「……秋恵、もう二度とここにはこないで」美奈子が動きだして、部屋のドアを開けた。「入ろっ拓哉」 たっくんは転がっているあたしを見つめ続けてくれる。 「拓哉」 美奈子の威圧感ある呼びかけで、たっくんは動きだした。なんでそんな女の方がいいのかわからない。 たっくんはあたしに一声もかけてくれず、“巣”に入っていった。でもきっと、心の中でたっくんはあたしに「ごめん」と言ったはずだ。 あたしは立ち上がり、潰したケーキはそのまま残してその場を去った。 5 アパートで孤独に過ごす時間は耐えられない。テレビを見ても笑えない。音楽をつけても耳障りなだけ。ただひたすらたっくんとの思い出写真を眺め続けたり、保存してあるメールを読み返したりを繰り返して、辛さを紛らわしていた。 それでもやっぱり、耐えられなくて、いつの間にか泣いていた。ぼろぼろと涙が零れてしまう。 「たっくん……たっくん……」 どうして、あんな冷たい女が良いのかわからない。美奈子を殺そうと考えたけれど、それをやれば一生たっくんに嫌われることが目にみえてたからやめておくことにした。もし美奈子を殺してもたっくんが傷つかなければ、それであたしのところに戻ってくれるなら、喜んでアイツを殺す。でもそんなふうにはならない。それはちゃんとわかってる。 どうしたらたっくんは戻ってくるのか。突破口はある。それをあたしは見つけた。ケーキを踏み潰したらたっくんはあたしを抱きしめてくれた。たっくんはどこか、美奈子に操作されている部分がある。 だから、美奈子がいないときにもっとアプローチすればいい。美奈子のわからないところでもっとあたしを犠牲にすればいいんだ。そうしたらきっとたっくんはあたしの下へ戻ってくる。たっくんは優しいから、あたしを放ってはおけなくなるはず。 簡単だ。 6 たっくんに電話を掛けるが、すぐに取ってくれなかった。でもまだ着信拒否にはしていないので、隙はある。あたしは何度もしつこく掛け続けた。すると、電話が繋がった。 「もしもしたっくん? 取ってくれてありがとう」 「アキ、もうこの電話を最後にしてくれ。きちんとお別れを言うために取ったんだ。これで着信は拒否にする」 「あ、わざわざそんなことしなくても大丈夫。これからは絶対に電話しないから安心して」 「本当か?」 「うん、そういう身体に変えるから」 「ん?」 「今から手首を切り落として電話を掛けられない身体になるから」 「……そんなふうに脅しかけるな、やめろ」 「脅しじゃないし」あたしは小指の指輪をじっと見入る。「たっくんのためなら死んでも良いって思ってるから」 「そんなの俺のためになるわけないだろ!」 「だって、生きてたらあたしこれからも絶対たっくんを求めつづけちゃう」 受話口でたっくんの漏らした息が聴こえた。親指で赤い指輪に触れながら、たっくんの言葉を待った。けれど、何かを言ってくれる気配はない。 あたしは床に置いてあったカッターを手にして、送話口越しでカチカチと刃を出す。 「なんの音?」 「カッターナイフの音」 「お前は、切らない」 「そう思う? ゆったからには切るに決まってるし──」 通話を切った。すぐにケータイの電源を落とした。 「たっくん来るかなぁ〜」 すうっと袖を捲くる。 「えいっ」 腕の上で刃を引き、じりりと痛みが走った。そこに血が集中しだす。切り口から血が滲みでてくる。 「えいっ」 二本目。 「えいっ」 三本目。 ピンポーン。 インターホンが聞こえて、喜悦が全身を巡った。腕を切るのをやめて、女の子らしく膝を曲げて腿の上に手をグーにして置いた。鍵は開いているので、ドアが開いて人が勝手に入ってくる。 「アキ!」 それはもちろん、愛するたっくん。 「おかえりぃ」 「おかえりじゃないよ──」 たっくんは傍に寄ってくる。表情を見るだけであたしに対する愛情をいっぱい感じられた。愛する人を心配する顔。不安そうで、真剣な顔つき。 「……本当に切ってたのか?」 「うん、でも手首切り落とすの怖かったから、いっぱいリスカしたよ」 ほらっ、と笑ってたっくんに腕全体を見せた。血だらけで傷だらけ。そこには無数の「たっくん」という文字が刻まれている。 「すごいでしょ。たっくんっていう字で切ってったの」 「お前……どうかしてるよ」 「どうもしてないよぉ、たっくんがだーいすきなだけ。あっ、また煮込みハンバーグ作ったよ? それと、またケーキも作った」 「病院に行け」 「病院?」 「心療内科に行ってこい」 「そこで診てもらってお薬飲めば、たっくんはここに帰ってくるの?」 たっくんがはあっと大きな溜め息をついた。そうして、ゆっくり立ち上がる。 「もう、お前に付き合いきれない」 ──まずい予感がした。 表情が、心配している顔つきから、白けた顔に変わっている。たっくんとはとても付き合いが長いから、あたしはその本気さが一瞬でわかった。たっくんの鋭い眼は、光を失っている。完全にあたしへの愛情を消去した、と強烈に感じられた。 このまま行かせたら、あたしは絶対見捨てられる── 「嫌だ! 行かないで!」 今逃がしたら二度とたっくんはあたしの相手をしてくれない、絶対に帰しちゃいけない! たっくんより早く動いて、たっくんを越して玄関のドア前に立った。 「行っちゃやだ!」 「退いてくれ」 「嫌だ!」 カッターの刃をたっくんに向けてみせる。 「俺をここで殺すか?」 たっくんの目はマジだった。光の宿らない鋭い眼差しがあたしに向けられた。怖くて、あたしは自分の頚動脈に刃をあてがった。 「あたしが死ぬ」 たっくんが、動揺をみせる。瞳にほんの少し、あたしに対する興味が宿った。これはいいかも。 「でもその前に出血で死んじゃうかなあ」腕から滴る血が床に広がっていた。「たっくんの目の前で死ねるならいいんだけどさあ」 「いい加減にしてくれよ……」たっくんは頭を抱える。「アキが死んだら、俺は一生苦しんで生きなきゃならなくなるじゃないか……」 一生、という言葉に、あたしは引っかかった。 「一生あたしで苦しむの?」 「そうだよ……俺を愛してるなら、俺を苦しめるようなマネはやめてくれ」 たっくんの声は震え、今にも泣いてしまいそうな目をしていた。 「どうあっても、もうたっくんはあたしのところに帰ってこないんだ?」 「ああ。これからは美奈子に言われたように、中途半端な優しさもみせない。お前はお前だけを愛してくれる人を見つけて、その人とお前らしい愛に生きろ」 あたしは……たっくんを愛していて、たっくんで苦しみ続けた。相手のことで苦しむのもきっと愛。一生、たっくんはあたしを想い続ける? 答えは、ここにあった! 腕に力を込めてカッターを首にぶっ刺す。 「おい!」 たっくんはあたしのために息を呑んで驚いてくれた。間違いなく、あたしを愛してくれている。さらに力を込めて深く刺しこみ、えぐり、掻っ切るようにノドまで引く。視界には多量の血しぶきが見えた。そのまま、ぶっ倒れる。 たっくんがたくさんあたしを心配してくれる。声をかけてくれている。どんどん視界が薄れていく── あたしを愛してくれるその姿を、もっと目に焼き付けたい。あたしを心配してくれる顔、真剣で、困った顔、たっくんの泣き顔を……脳裏に焼き付けたい……。 意識は遠のいて、最後に言わなきゃいけない言葉を言うために、がんばって口を動かした。 たっくん、だいすき その言葉がたっくんの鼓膜を振動させられたかどうかはわからない。 あとは一生、あたしで苦しんで。 一生、あたしを愛し続けて。 〈第四話 「大好き」end〉 |
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