第五話 「愛したいから」‐星野 美怜‐


 自分でも気づかなかった想い、というのがある。それに気づいたときはもう手遅れ、なんてこともよくあると思う。
 私は、気づいた想いが手遅れになりかけた者の一人。
 だから必死に手を伸ばした。誰かに奪われたくなかった。私の傍から離れてしまうことが怖かった。ずっと、私だけのものにしておきたかった。
 笑顔、恥ずかしがる表情、落ち込んだ顔。私を頼り、甘える態度。全部が愛しい。
 あの子の全てを手に入れるために、手段は厭わない。もう独りは嫌だから。



  1


「ねえねえ、キミ」
 まただ。
 これで何度目だろう。もううんざりだ。
美怜(みさと)、声かけられてるよ?」
「うん……」と、私は返事を濁す。
 相手にしたくない。しかし、見知らぬ男は私たちの前に出てきて、行く手を遮った。
「二人とも、すっごい美人だね。よかったら連絡先交換してくれない?」
 目の前の男は恐らく、イケメンの部類に入る容姿をしている。
「いま急いでるの。ね?」
 結衣(ゆい)に同意を求めると、結衣は私と男を交互に見遣ってから、「うん」と返事をした。
「あ、じゃあさ」
 男はポケットを探る。ワンパターン。絶対ここで繋がっておきたいからと、連絡先の書かれたものを出すんだ。
「君たちみたいなキレイなコに出会ったとき、困んないように──」
「行こっ」と、私は結衣の手を繋いで引く。
「ちょっと美怜──」
 強引に手を引いて、男の横を通過した。男は私たちを呼び止めるけれど、聞かない。「呼んでるよ?」と結衣は構おうとするが、「いいの」と私は言い、その場を去った。

「さっきの人、かっこよかったじゃん」
 結衣がストロベリーパフェを口に運びながら言う。こっちは見ているだけでも寒い。
 私たちはカフェに入って、ガラス張りの窓に面したテーブル席に座っていた。窓の向こうには街路が見える。
「カッコイイかもしれないけど、外見と中身は違うよ」
 私はホットコーヒーを喉に通す。温かい感覚が食道を抜け、胃に落ちる。
「そうだけど、知り合ってみないと中身はわかんないじゃぁん」
「私はああいうの、興味ないから」
 はあ、と結衣が溜め息を漏らした。
「美怜ってさ、ホント勿体ないよねえ」
 この子は二言目にはこう言う。
「さっきの人って絶対、美怜目当てだもん。気を遣って『君たち』ってゆってくれたけど」
「どうだか。結衣目当てかもしれないし、気を遣ったんじゃなくて悪く思われたくないからかもしれないよ」
「んー」と、結衣は口を尖らせて視線を右に向けた。この子がよくやる仕草だ。結構可愛い。
 その視線が私に向き、「とにかく」と言って結衣は私を指差した。
「美怜は勿体ない。今まで何人が路上で美怜にナンパしたか、覚えてる?」
「そんなのいちいち勘定しないよ」
 私は意味もなくスプーンでコーヒーを混ぜる。結衣は私に差し向けている手と、もう一方の手を出してパーにした。
「百人は超えてるよ?」
「もうそんなにいったっけ?」と、他人事のように笑って言った。
 結衣は手を下げる。「あたし一人のときは全っ然、声かけられない。美怜は一人で歩いてても声かけられるんでしょ? 100%美怜目当てだよ」
 以前そんな私を事細かく結衣が分析した。私は、綺麗と可愛いとかっこいいを併せ持つ顔をしていて、スタイルは抜群で、艶やかで長い黒髪が素敵で、眼がマンガのみたいに魅力的で大きく、それらの完璧な美貌のせいで、すれ違った男の“女性捕獲スイッチ”を押してしまうとか。
「それなのに、どうして二十四にもなって男と付き合ったことがないの? おかしいよ、異常だよ、一生男と付き合わないつもり?」
 結衣はオーバーに声をあげていた。私は人差し指を唇に当てて、「しー」と言う。すると、結衣は気づいたように辺りを見回し、数名がこちらに注目していることに気づくと、肩を竦めた。それが可愛くて、私はふふっと笑ってしまう。
 私は、いつも男を疎ましく思っていた。下品で野蛮な人ばかりだし──そうじゃない人もいるけれど、一緒の空間にいることを想像するだけでも倦怠感に囚われる。これは昔から、頻繁に男に言い寄られていたからなのかもしれない。面倒な目に遭ったこともあるからなのかもしれない。学生時代に男子から何度も告白されたことがあった。恋愛することに興味を持てなかった私は、全て断ってきた。
 中学二年のとき、不良を気取った男子から告白された。そいつが一番しつこかった。何度も告白されて、その度に私は丁重に断ってきた。断り続けていると、やがてその男子は私を敵視して低俗な嫌がらせをするようになった。嫌がらせの多くは、なんの工夫もない低レベルな悪口だったけれど。
「もうそろそろ巡り会っておかないと不味いよ? 美怜はすっごい美人なんだから、若くてイケメンの優しいお金持ちと簡単に付き合えるって」
 私はそれを笑い飛ばした。「興味がないから」
「じゃあ、渋くて包容力たっぷりでお金持ちのおじさまは?」
 もう一度笑い飛ばしてみせる。「興味ない」
「もお」と、結衣は怒ったように言う。「いったいどんな男だったら美怜様の御眼鏡にかなうわけぇ?」
 自分の交際相手なんて、想像もできない。私はこの先誰とも付き合わなくていいとさえ思っている。恋愛する必要性を感じない。こっちが疲れて傷つきそうだし、誰かと付き合う気なんてなかった。
「私はずーっとお一人様でいいよ」
「ダメだってば、結婚しないと老い先淋しいよ、絶対」
「ひとりでいて淋しいって思ったことないから」
 それに、結衣がずっと友達でいてくれたらそれでいい。
 ハアっ、と結衣は溜め息をついた。「老いてから孤独を味わったら、結婚しなかったことを後悔するよ。旦那さんもしないし、子供もいないし、孫もいないし。あたしが男になって結婚してあげたいよ」
 冗談であるその言葉を、私は脳内で軽くシュミレーションしてみる。すると、私が男の方が合っている気がした。
「私が男の方が良いよ」
 結衣がふっと笑う。「あたしもそう思った。いいなあ、美怜が男だったら最高の男性だよ。優しいし細かい気遣いができるし、料理もできるし──顔も完璧なはず。誰もが振り返るイケメンだろうなあ」
「街ですれ違ったら結衣の“男性捕獲スイッチ”が入っちゃう?」
「入っちゃう入っちゃう」結衣はスプーンを振る。「その場で告白しちゃう」
「色んな女の子が言い寄ってくるから、浮気するかも」
「ああ〜」と、結衣はテンションを落として肩を下げた。「でも、美怜がちゃんとあたしを愛してくれたら、浮気も許しちゃうかも」
「許せるの?」
 声を出さずに結衣は大きくうなずく。「美怜は完璧すぎるから、それくらいあってもいいかも」
「ありがとう」私は微笑む。「けど、浮気なんかしないよ。誰よりも結衣を愛してるから」
「きゃー」と結衣は大仰にスプーンを振りつつ嬉しがった。スプーンに付く溶けた液が飛び散って、私はそれを手で塞ぐ。
「結衣、溶けたアイスが飛んでるよ」
「あ、ごめん」結衣はピタリと止まって、グラスの中にスプーンを突っ込む。「そうやって言われたいなあ」
「例の人はどうなの? この前合コンで連絡先交換したっていう、二十九歳の青年実業家」
「ちょくちょくメッセージのやりとりはするんだけどねぇ〜」結衣は生クリームを載せたストロベリーアイスを口に運ぶ。「向こうから誘ってこない」
 結衣は冷たそうに身を縮める。その姿を見つめつつ、私はコーヒーを一口飲んだ。
「結衣からお誘いしないの?」
「しないしない。向こうから押してくる人じゃないと、あたしは嫌だから」
 結衣自身が言っていたのだが、彼女は子供っぽくて、それでいて恋愛は受身。引っ張ってくれる保護者的な人が適している、というところだろう。半年前に結衣は、ワガママで子供っぽい、“保護者”が必要な男と付き合っていた。初めの内だけ気は合っていたけれど、結局上手くいかなかった。数ヶ月付き合ったけれど、結衣から別れを切りだし、男はそれを強く拒んだ。しつこく結衣に付きまとった。だから私が新しい彼氏のフリをして結衣の携帯からそいつにメールで脅しをかけた。すると、「裏切り者」とか「卑怯だぞこのアマ」とか散々結衣を罵って、二度とメールを送ってこなくなった。そのメールは結衣に見せなかった。私が見て、すぐに削除したから。
「ヘンな男につかまらないように気をつけなよ」
「はーい」と、素直に結衣は返事をした。そうしてパフェを掬ったスプーンを口に入れた。
 ……可愛い。
 同い年なのに、いつだって私は結衣を妹のような目線でみていた。結衣もそれを受け入れていた。

 私たちが知り合ったのは大学の頃。グループで行動することが苦手だった私は、好んで独りになっていた。大学生活では友達を作らないと上手くやっていけないんだけど、私はずっと独りのまま大学一年を終えた。
 二年目に入ったある日。次の講義まで時間があって、大学内の図書館で本を読んでいると、突然女の子が声をかけてきた。
「あの、あたしと友達になってください」
 それが彼女、高倉結衣だった。女の子に声をかけられることはあったけれど、そんな率直過ぎる要求は初めてで──独りでいられる時間を失うことが過ぎりはしたけれど、彼女の真剣な眼差しは、私の否定したい思いを抑制して、「いいよ」と返事をしてしまった。
 後に聞いた話だが、私は大学内でちょっとした有名人だったらしい。「お高くとまった独りぼっちの美女」と。
 結衣は結衣で、いつも一緒にいる友達が三人いたんだけど、私と友達付き合いをしている内に、その三人との友情を捨てる形となった。ずっと結衣は私に付いてまわってくれた。私は、誰かといる楽しさを、初めて結衣に教えられた。
 大学を卒業して就職してからも、こうやって仲むつまじく友達付き合いをしている。

 割り勘、というのが私には向かない。いちいち計算して細かいお金を受け取ったり渡したりするのは嫌いだった。なのでだいたい、私が結衣に奢っていた。今日も、自分の分を計算しようとする結衣に「私が払うよ」と言って奢った。そうして時々、結衣もご飯を奢ってくれる。
 店を出て、街路を二人、並んで歩く。今日は服を買いに行くことが一番の目的だった。十一月も半ばを過ぎ、日ましに寒くなって、木枯らしが吹きはじめたこともあって、冬物の服を見に行こう、ということだった。
 不意に、聞き覚えのあるメロディが右側から聞こえる。
「結衣、携帯鳴ってるよ?」
「え? あ、ホントだ」
 自分の携帯なのに自分で気づけないことを、私は微笑ましく思った。メロディは電話の着信音。結衣は歩きながらバッグから携帯を取りだす。
「だぁれ?」
 覗き込む気はないけれど、覗く素振りだけする。結衣はそんな私に画面を向けた。
「噂をすれば、なんとやら」
 画面には「大島遼一」と出ている。それが誰なのかは知らないが、容易に推測は立った。
「合コンでアドレス交換したっていう人?」
 結衣はうなずく。「出ていい?」
 なんで私に聞くのやら。可愛いなぁ、もう。
「出ればいいじゃん」
 私がそう言うと、結衣は携帯に出た。なんとなく歩みを遅くして、結衣の二歩ほど後ろに付いて歩く。電話をする彼女を見守った。
「え、今からですか? 今からはちょっと……」
 どうやら、お誘いの電話らしい。結衣は左側を向き、そこに私がいないと気づくと、立ち止まってキョロキョロと辺りを見回した。私も止まった。
「私のことはいいよ」
 結衣は気づいて振り返った。「ダメだよ、服買いにいくんだからぁ」
「また今度でもいいじゃない。せっかく誘われたんだし、遼一(りょういち)さんに会いたくないの?」
「んー」と、結衣は口を尖らせて視線を右に向ける。答えが出ると、視線はこちらに向いた。
「一緒に会おっか?」
 首を振った。「会わない」
 結衣は困ったような顔をみせる。
「お買い物は明日にしよう。明日、結衣と遼一さんの話が聞きたいなあ」
 結衣は私に目を合わせる。それから、ゆっくりと何度かうなずいた。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん」
 私は微笑みを浮かべてあげる。結衣は携帯を耳にあてて、電話を再開した。
 遼一さんは近くまで来てくれることになった。「待ち合わせ場所までついていってあげようか?」と言ってあげたら、「子供じゃないんだからいいよぉ」と結衣は言った。その場で私たちは別れた。
 結衣がいなくなり、独りになる。元々独りのときはいいけれど、誰かといてから独りになるのは、少し虚しさを覚えた。佇む私を、人々がすれ違って流れていく。男たちが私に指差し、囁き合う。
 私は視線を逸らし、歩きだした。

 アパートに帰るのはどうしてか気が引けた。らしくもない淋しさを覚えるだろうから。本屋で立ち読みをして、気を紛らわせることにした。
 大型の本屋に入店する。特に読みたいものはないのだが、そんなときは色んな雑誌を適当に読み耽るに限る。女性誌コーナーへと入った。
 気づけば、一時間ほど雑誌を見ていた。本を手にするといつも時間が消えてしまう。
 変わった雑誌はないかと店内を周り始めた。カルチャー雑誌が集まるコーナーへと入り、私の興味を惹きそうなものを探す。平積みされている雑誌が目に留まった。その脇に、若い女の子たちが四人固まっていて、その雑誌を立ち読みしている。なんの雑誌かのぞいて確認すると、私は目を疑った。ガラリと一変して異様な光景に映った。
 雑誌は、非現実性を一生懸命現実的に解釈することで有名なオカルト雑誌『月刊オカルトオリジン』だった。滑稽で、ある意味面白いから、昔はよく立ち読みしていた。
 その雑誌は決して若い子が読むようなものではない。ましてや女の子が手に取るようなものではない。内容が陰気過ぎて、そのうえ堅苦しいからだ。
 それなのに、女の子たちは和気藹々とピッチの高い声を出しながら、楽しげにオカルトオリジンを読んでいた。
「女子高生のY子さんは、レンジュにかかって友達の彼氏を奪ったらしいよ」
「レンジュって、本当に存在してるの?」
「レンジュのおかげで大好きな人と付き合えるようになったり、結婚した人がたくさんいるんだって。本当にあるみたいだよ」
「ねえ、誰かレンジュにかかってみてよぉ」
「えぇ、やっぱちょっと怖いよ、死んだ人もいるんだしぃ」
 聞き耳を立てつつ私はオカルトオリジンを手にしていた。表紙には「恋呪特集第四弾! 恋呪は決して暗い呪いではない!」という文字が掲げられている。そういえば、レンジュという言葉をテレビで耳にしたことがあった。世間がくだらないまじないを本気にしている、と私は小ばかにしていた。

 記事を読み終えた頃にはもう女の子たちはいない。
 恋に悩む人にとっては、夢のようなお話が載っていた。ただ赤い糸を左手の小指に結びつけるだけで、好きな相手と幸せな恋をすることができる、らしい。体験者の言葉がいくつか載っていたが、どれもうそ臭かった。
 でも、結衣が好きそうな類の話だ。明日話してあげよう。

 晩御飯を作り終え、テーブルに並べてテレビを観る。この時間が一番好きだ。隣に結衣がいたらそれはそれで楽しいんだけど、独りで食事というのも良い。土曜のこの時間帯にやる番組も好き。内容は、芸能人が世界を旅して、その土地の文化に触れたり、未知なるものを発見していったりするもの。いつかは私も、そんなふうに世界を旅したいと思う。
 けれど、今週のその番組は明らかに装いが違った。人気急上昇中のタレント「花澤(はなざわ)花菜(かな)」がスタジオで重々しい顔をしながら喋っていた。
 おかしい。チャンネルは合っているはず。
 携帯で番組を確認した。すると、私が毎週土曜楽しみにしている番組名はどこにもない。代わりに、二時間番組が組まれていた。
「緊急特番、今話題の恋呪を科学的に徹底解明」
 それが番組名だった。
 花澤花菜は、恋呪にかかった数十名のファンからあの手この手の様々なアプローチで真剣な交際を迫られていたらしい。それに迷惑していて、どうにかしてほしいと訴えかけていた。実際に三名のファンがスタジオに呼ばれていて、それぞれが花澤花菜に対して思いの丈をぶつけていた。花菜はそれを真剣に受け止め、真面目に一人ずつ断っていた。科学とはなんら関係がない。
 と、思いきや、いったい恋呪にかかっている人たちはどんな状態にあるのかと、三人の脳波や血液などが事細かに調べられた。検査結果は「恋に落ちた状態と同じ状態である」という、「解明」には程遠いものだった。一つ変わったことといえば、脳の働き。恋する相手──花澤花菜の写真を三人に見せたとき、右脳と左脳が活発に働いていた。異常らしい異常は見つからない。
 番組の最後では、三人が花澤花菜を諦めると公言していた。三人の内の一人が、「諦めたくはないけど、でもカナちゃんが迷惑してるなら、ボクは恋呪を解きます」と言い、その場で左手の小指に結び付けていた赤い糸を切った。それを見た二人も、赤い糸を切った。
「世の中に女性はカナちゃんだけではありません。今恋呪にかかっているのに、どうしても恋を叶えられず苦しんでいる全ての人にそれが言えます。諦めることも大切です。諦めて、前に進むことは大事です。自殺をしたり、誰かを傷つけたりする前に、限界だと思ったら、あなたも恋呪を解きましょう」
 司会者がそう言って、番組は終わった。結局エンドロールまで観てしまった。
 これっきりかと思っていたが、番組の終わりに「次週、糸を指輪と言い張る人の恋呪を徹底解明」と予告が出た。ゲストとして、恋呪を調査している『オカルトオリジン』の女性編集者が出演するらしい。
 私の好きな番組を潰して、また二時間の特番を放送するようだ。

 雑誌で読んだときに知ったことだが、恋呪を試した人の中には、赤い糸が真っ赤な指輪に見える人がいるらしい。その人は恋呪を解くことができないのだという。
 ここまで世間が騒いでいると、私もやってみたくなった。本気で信じているわけじゃない。お遊びのつもりだ。そもそも、私は好きな人もいなければ恋をする気もない。これは、ただの好奇心。
 私は、赤い糸をこま結びで小指に結った。


  2


 朝。
 目を覚まし、指を見て、震えた。
「なに、これ、うそでしょ……」
 赤い糸を小指に結んだはずなのに、赤い指輪になっている。触れると、質感が確かにあった。幻じゃない。
 私は恋呪にかかった? 好きな人なんていないのに?
 気持ちに別段変化はない。ただ、指輪の存在は怖かった。赤、というか緋色。深く鮮やかな赤。綺麗だけど、外してしまおうと指輪に手をかけた。
「──外れない」
 パッと恋呪の情報が過ぎる。
 赤い糸が真っ赤な指輪に見える人は、恋呪を解くことができない。
「ちょっと、どうしよう──」
 焦って指輪を引っ張るも、抜けそうになかった。

 一時間ほど指輪と格闘した。やはり抜くことができなかった。まるで指にくっついているみたいで、油を使って滑りをよくして抜こうともしたけど、ダメだった。
 一旦諦めて、朝食を作った。食事をしながら、携帯で恋呪に関して調べた。すると、掲示板には同じように赤い糸が指輪になって、外せないと騒ぐ人たちがいた。解決方法も載っていた。解決、というにはあまりにも漠然としたものだけど。
 いつか外れる、らしい。

 昼前に、結衣から電話が掛かってきた。
「美怜に色々相談したいから、あたしの家に来て。昨日のお礼にご飯作って待ってる。一緒に食べよう」
 昨日のことを話したいのだろう。私もそれは、頭の片隅でずっと気にしていた。

 結衣のアパートに着いて、インターホンを鳴らす。彼女はエプロン姿で出迎えてくれた。
「ちょうどできたところなんだよ」
 明るい声でそう言う。匂いからしてオムライスだなと判断がついた。
 玄関前の台所を抜けて部屋に入ると、部屋の中心にある小さなテーブルにはお皿が二つ並べられている。結衣はそれほど料理が得意ではないから、一生懸命さが滲みでているオムライスだった。卵は明らかに焼きすぎで、しかもぼろぼろ。
 二人並んで座布団に座り、「いただきます」を言って私は一口食べた。すると結衣が何点のできかを訊いてきた。
 チキンライスは、私が教えてあげた炊飯器で炊いて作るやり方で作ったようで、上手くできている。かけたケチャップはなぜかハートマークで、ハートの中心に「ミサト」と書かれていた。
「六十五点」
 低めに点数をつけたのだが、結衣は喜んだ。可愛いもんだから、結衣の頭を撫でてあげた。……嫌がられたけど。
「でもまだまだだよねぇ。美怜みたいに卵ふわふわにできない。これじゃあ遼一さんには出せないなぁ……」
 まだ二度しか会ってない人間が、唐突に親密な位置まで割り込んできた。
「もうそんな関係になったの?」
「ううん、そういう意味じゃない。でもね、すごく良い人だったの」
 少なくとも遼一さんには結婚の「け」の字ぐらいは見出したってことか。
「良かったね」
 オムライスを口に運ぶ。よく咀嚼して、お茶を飲む。
「まさか昨日会っただけで、いくとこまでいっちゃった、ってことはないよね?」
 彼女は咀嚼しながら「ないない」と言って首を振る。それから飲み込む。
「でもね、ちゅーはした」
「うそでしょ、したの?! ──なんでしちゃったの?」
 そう声をあげてから、オーバーな反応だと思った。
「別れ際でね、車内で、雰囲気良かったから……」
 結衣の顔が綻ぶ。嬉しそうにするその姿が、私には受け入れられない。結衣の唇を見つめた。小さくまとまった、可愛らしい唇。一遍にあまりモノを入れられないから、いつも結衣は食事に時間がかかった。
「どんなキスしたの?」
「ちょっと深めのバードキス」
 スプーンを持つ手に、力が入る。
「最初はかるーいバードキス。じーっと見つめあって……あ、これってキスしちゃう感じ? って、どんどん遼一さんが近寄ってきて、あたしも近寄っちゃって、軽く触れ合ったの。それから、遼一さんがもう一回あたしに寄ってきて、何度かキスされた。いっぱい頭とか肩とか触られてね、嬉しかったんだけど、ちょっとマズイなあって思ったの。遼一さんのスイッチ入っちゃうのかなあって。あたしはそんな気なかったから。でも彼、いきなり身を引いたの。どうしたんだろうって思ったら、遼一さん『ごめん』って謝ったの。ああ、良い人なんだなあって、あたし思った」
「確実に結衣をモノにするために、引いたのかもよ?」
「違うってぇ、美怜はすぐに男の人を疑うんだから。昨日一緒に過ごしてね、遼一さんは素敵な人だって、わかったの」
「どう素敵なの?」
「どうって言われても……。雰囲気が良いの。大人っぽいし、真面目だし、収入もあるし」
 妙な喪失感が湧く。結衣が、私の手の届かない場所へ行ってしまう気がした。
 おかしい。以前結衣が男と付き合っていても、こんな感情は湧かなかったのに。
「本当はね、明日も会おうって言われてた──あ、今日のことね。でも今日は美怜とお買い物に行くんだから、それは断ったよ」
「別に行けばいいじゃない」
 ひどく冷たい口調で言葉を発した。言ったあとにそう気づいた。結衣の顔が曇っている。
「どうして? 明日は行こうねって、約束してたじゃん」
 私は、言葉を選ぶ。本音とは裏腹の。
「私は、結衣に幸せになってほしいから。いつも結衣はゆってるじゃない、結婚がしたいって。遼一さんが良い人なら、早く手をつけないと他の人に取られちゃうよ?」
 曇っていた結衣の顔が、徐々に晴れ間を見せる。小さく笑んで、何度かうなずいた。
「あたしそんなに焦ってないし。結婚より、友達を大事にしたい」
「私を大事にしたい?」
 オムライスを口に入れた結衣は、咀嚼しながらうなずく。
 嬉しくて、結衣の髪に手を伸ばし、触れた。結衣は戸惑った。
「なんか──」結衣はグッと食べ物を飲み込む。「今日の美怜、なんていうか……愛情に溢れてる」
 私はふっと笑う。立ち上がって、結衣の後ろに回り、そっと抱きしめた。
「えっ、美怜、どうしたの、なにしてるの──」
「私はいつだって、結衣に強い親愛な気持ちを持ってるんだから」
「そ、そうだったんだ」
「そうだったよ」結衣からサッと離れた。
 私は戻って、オムライスを口に運ぶ。

 食べ終えて、少し休憩してから出かけることにした。
「ねえ結衣」
 ベッドに寝そべって雑誌を眺めている結衣は、その状態のままで「なぁに?」と返事をした。
「恋呪って知ってる?」
「あー!」と突然大きな声をあげて、雑誌を持ったまま結衣は起き上がる。
「それ知ってる、赤い糸を左手の小指に結びつけると、悪魔が降臨するっていう、危ない呪いでしょ?」
 結衣の中では随分と危険なものとして認識されているようだ。
「知ってたんだ。やったことある?」
「ないない」結衣は首を振る。「それやると、最後は死んじゃうっていう話だよ?」
 私は「へえー」と言ってみせる。結衣はあまり細かいことを知らないみたいだ。
「美怜は、レンジュのこと信じてる?」
「ちょっと信じてる。なかなか素敵じゃない、良い恋愛できる呪いなんて」
 なんとなく左手を隠す。今までずっとそうしていたけれど。
「でも美怜はそういうのやらないでしょ? ていうか、やっちゃダメだよ、危ないから」
「やらないよ」
 そう言って私は笑う。左手を、更に隠した。


  3


 ゆったりと湯船に浸かりながら、赤い指輪を見つめる。そうしながら、今日一日結衣と過ごしたことを振り返った。
 私の気分は今までとは違った。結衣に対して、今まで以上に愛しさが溢れていた。結衣のことが可愛くて仕方なかった。彼女の身も心も食べてしまいたい、というような欲求が湧いていた。そこに私は嫌悪の情を持たない。受け入れてしまえば、自分がどういった立場にいるのか、よくわかった。
 ──私は、結衣が好きだ。結衣を愛してる。
 街中で平然と結衣を愛撫していた。隙を見つけては結衣にたくさん触れた。頭を撫で、身を寄せ、瞳を覗き込み、頬に触れ、微笑む。結衣の反応は思い出すだけでも可愛い。もちろん恥ずかしがって嫌がったんだけど、その姿が私の目には、また更に可愛げに映った。何度「今日の美怜はおかしい」と言われたことか。それでも構わず、私なりの愛情を結衣に向け続けた。
 明日、仕事終わりに結衣は例の男と食事に行くと言っていた。「求められたらどうするの?」と訊けば、結衣は「悩んじゃうかも」と言っていた。
「男の目的なんて、結局カラダなんだから」
 そう言ってみせると、「それは偏見だよぉ」と結衣に言い返された。
「美怜は男と付き合ったことないから、わかんないんだよぉ」
 そんなふうにも言われた。けれど、私にはわかる。結衣は今までそういう男と付き合ってきたんだから。
 ……嫌な予感がする。手を打たなければいけない。


  4


 いてもたってもいられなかった。
 仕事が終わると、私は現場へと直行した。美しい夜景を堪能できることで有名なビルの、しゃれたレストランに二人はいた。私は一人でそこへ乗り込み、二人の姿を見つけると、結衣にバレないよう、結衣の背中が見える離れた席を取った。
 結衣は饒舌に喋っている。アルコールが入っているのがすぐわかった。飲み物は恐らくシャンパン。男は今夜、結衣を落とす気でいるに違いない。
 私は赤ワインと適当な食べ物を注文して、自分にアルコールを入れた。もしものときは酔った勢いで止める気でいた。直接止めるわけではない。電話で結衣を心配させるのが目的だ。結衣の気を削ぐ自信はある。

「すみません、お一人ですか?」
 少し経ってから、急に声をかけられた。声がしたほうを見遣ると、男が立っていた。高身長で、高そうなスーツ姿。自信たっぷりなお顔。
「お一人です」
 敵意のない柔らかな声で言い、ワインを口に含む。
「連れの人は帰ってしまった、とか?」
「いえ」
 私は夜景に目を向ける。休むことを知らない都会の夜を、光の粒が彼方まで彩っている。
「まさか、夜景を眺めるためにお一人で?」
「そんなところです」と、気のない返事をする。
 すると男は控えめに笑った。「美人には変わり者が多いとよくいいます」
 私も控えめに笑む。「聞いたことがありません」
「ええ。僕の持論ですから」
 遠まわしにお世辞を言いたいようだ。
「同席してもいいですか──」
「イヤです」と即答してみせる。
「ダメですか? どうして?」
 座られたら、結衣が見えなくなるだろ。
「他の女性を当たってください」
「そんな、他の女性なんて──」
 男は適当に客を見渡し、首を振る。
「あなたに代わるほどの美女を、僕は生涯で見かけたことがない。これはお世辞じゃなく──」
「なら」と、声量を抑えつつ強めに言って男の言葉を遮る。「随分と狭い世界を生きてきたのでしょうね」
 私はグッとワインを飲み干す。
「これでも、世界を飛び回っているんですよ」
「そっちの世界じゃない」
「人間関係ですか? あなたはもう少し、言葉を選んだほうがいい。折角の美人が台なしになってしまう。今の発言は、洞察力に欠けた浅はかな言葉ですよ」
 はあ、と露骨な溜め息をついてみせた。
「面倒だったから思いついた言葉をただ口にしただけです、軽率な発言をしてすみません」
 男が一旦停止する。それからふっと笑む。
「どうやら、機嫌が悪いようですね。元々ですか? それとも僕が原因でしょうか?」
「あなたが原因です」
「それは失礼をしました。お詫びに、ここの御代をお支払いしておきましょう。それで許してもらえますか?」
「そんなことしなくて結構です」
「まあ、そう言わずに。実は僕、こう見えても、このビルの七階にある会社──」
「消えろ」
「へ?」
 男が呆気に取られていた。右手には名刺とブラックカードを持っている。
 私は大きく息を吸い込み、吐きだす。声色を威圧的な野太い声に調整し、鋭く男を見据えた。
「お前の肩書きなんてどうだっていいんだよ、こっちは元から眼中にないんだ。手を尽くそうとするな、見苦しい」
 男は完全に固まった。周りに目を向けると、客がこちらを向いていたことに気づいた。背中を向けている結衣が身動ぎする。私はとっさに頭を抱えて、顔を背けて隠す。
「お前から勝手に声かけてきたんだろう。それなのに説教くさいこと垂れてんじゃねえよ。もう一言すら喋るな、そのまま黙って私に背中を向けて消えろ」
 男は動こうとしない。横目には、若干震えているようにも見えた。
 三十秒ほど経てようやく男は動きだす。何も言わず、背中を向けて去っていった。
 私は顔を戻さない。結衣がまだこちらを見ているかもしれないから。
 周りでは静かな会話が再開する。充分時間が経ってから、ゆっくり結衣を確認した。
「あっ──」
 いない。二人とも席に着いてない。
 店内を探すと、出口付近にその姿を見つけた。

 二人が出てから、私も急いで会計に走った。勘定を払おうとすると、「御代は堀北様がお支払いになりました」と言われた。店員がその男の名刺を私に渡そうとしてきて、代表取締役社長、という文字が見えた。受け取りたくない、と言ってみせるが、向こうもそうはいかないようで、「形だけでも受け取ってください」と言われた。さっさと店を出たいので受け取り、エレベーターの隅に置いておいた。
 ビルを出ると、丁度二人がタクシーに乗ったところを目撃した。私は、後に続くタクシーに乗り込み、前のタクシーを追わせた。
 駅に向かってほしかった。あるいは結衣の家でも良い。途中で男が下りるならなお良い。
 だが、どれも当てはまることはなかった。タクシーは見知らぬマンションの前で止まった。男の肩に担がれて、結衣は出てきた。足元がふらついている。
 タクシーには待ってもらい、私は急いで外に出た。結衣と男がマンションの入り口へ向かう。私はヒールの音を威圧的に鳴らしつつ、近づく。
「結衣!」
 呼ぶと、結衣は顔を上げて立ち止まり、男も一緒に止まる。結衣が左右をキョロキョロと見回す。男が、私の鳴らすヒールの音に気づいて振り向く。
「結衣」
 もう一度、優しく呼んでみせると、結衣はこちらに気づいた。
「あ、美怜……なんでここにいるのぉ?」
「ミサト? ユイちゃんが話してた人?」
「そうだよぉ、やっばいくらいに超美人でしょぉ〜」
 二人が私に身体を向ける。私は二人の前で立ち止まり、結衣に微笑みを浮かべてみせる。彼女はべろべろに酔っ払っていた。男には、鋭い眼差しをくれてやる。
「今日は私の大事な友達を持て成してくれてありがとう。でも、これ以上の御持て成しはしなくていいから」結衣の腕を掴んだ。「帰ろう」
「え、でも……」
「いいから、帰るの」
 結衣は私と男を交互に見る。
「ミサトさん──」
「星野です」
「星野さん。どうしてここに?」
「結衣が男の部屋に連れ込まれるんじゃないかと心配で」
 男は偽善的に笑う。「それでずっと追ってきたんですか?」
「そうです」
「何か、勘違いをしていらっしゃるのでは?」
「勘違い?」
「ユイちゃん、飲みすぎたから、少し家で休んでもらおうとしただけですよ」
「りょーいちさんはねぇ、優しいのぉ、良い人だよぉ〜」
 私は、愛を交えた笑みを結衣に送る。瞳を覗き込み、ゆっくり頬を撫でてあげる。
「まただぁ……美怜の愛情が見えた」
「見えて当然。愛してるんだから」
 結衣はぽかんと私を見つめる。私は男に目を合わす。
「あとは私が結衣の家まで送るから」
 私は髪をかいてみせる。微笑んで、男を見つめる。瞳の奥を覗き込むように、じっと見つめてあげる。
「あなた、よく見たらすごくイイ男。よかったら、今度は私があなたの相手をしてあげようか?」
 結衣と男が声を揃えて「え?」と言った。
「どう? それとも──」胸の辺りに手を置く。「私じゃ、不満かな?」
 男が唾を呑む。結衣と私を交互に見遣る。
「さっ、行くよ」
 結衣の手を引っ張った。すると、男はいとも簡単に結衣を離して、私が結衣を肩に担いだ。
 私はもう一度男を見る。鋭く睨んだ目つきで。
「二度と結衣の前に現れるな」
 男は困惑した表情を浮かべた。私は、さっさとタクシーへ向かった。

「美怜、なんであんなこと言ったの?」
 結衣のアパートに向かうタクシーの中で、結衣が言った。
「あの男はダメ。すぐに浮気するから」
「そんなの、わからないよぉ……」
「私にはわかる。だからダメ」
「美怜は、あたしに幸せになってほしいんでしょ? あたし、遼一さんだったらいいなあって、思った。そういうことになっても良かった……遼一さんに抱かれたかったよぉ……」
 グッと切なさが湧く。胸が苦しくなる。
「ごめんね」
 そう言って、結衣の髪や頬を撫で続けた。
 結衣のアパートに着いて、タクシーを降りると、待ってもらうことなくタクシー代の支払いを済ませた。
 結衣を部屋へと連れていき、ベッドに寝かせ、水を一杯汲んで持っていく。
「ありがとぉ……」
 起き上がった結衣はごくごくと水を飲み干した。そうしてまた、ベッドに横になった。
 私はベッドに座って、結衣を撫でる。
「美怜、お母さんみたい」
 それはちょっと傷ついてしまう。
「違う。私は、結衣の彼氏」
 冗談だと思っているのだろう。結衣は薄っすら笑った。
「美怜は、あたしのためを思って来てくれたんだよね……。あたしのためを思って、遼一さんにあんなこと言ったんだよね……」
「うん」
「だったらぁ、ありがとうって言わなきゃね。美怜、守ってくれてありがとう。美怜がいてくれて──美怜が友達になってくれてから、あたしずっと幸せだったんだ。友達って、いっつも友達っぽくなくてさあ、あたしは淋しかったの。あたしが何もかも許せて、こんなにも仲良くなれたのは、美怜が初めてなんだよ」
 じわりと涙が浮かぶ。溢れてしまって、私の頬を伝う。
「ごめん……」
「なんで謝るの?」
 だって、結局は私の欲で結衣の恋を一つ終わらせたんだから。
 私は、それを一生続けるつもり? それじゃあ結衣は一生、本当の幸せを手に入れられない。
「美怜、泣いてるの?」
 私は涙を拭う。「結衣が嬉しいこと言ってくれるからだよ」
 私も、淋しかったのかもしれない。私が何もかもを許せて、こんなにも仲良くなれたのは、間違いなく結衣が初めてだ。
「その赤い糸──」
 結衣に指摘されて、左手で涙を拭ったことに気づいた。すぐにもう一つのことに気づいた。
「赤い糸?」
「小指に結んでる糸。美怜、恋呪してるの?」
 私には、指輪にしか見えない。……そういえば、携帯で掲示板を読んだとき、指輪は本人以外には糸にしか見えないと書いてあった。
「試してみちゃった」
「大丈夫なの?」
「うん。大丈夫」
「美怜、好きな人なんていたの?」
 私は言葉を止める。結衣を見つめて、考える。
 どうせ、実ることもない私の恋。継続して結衣を不幸にしてしまうのなら、ここで全部ぶちまけて……終わらせよう。
「私さ、結衣が好きなんだ」
 結衣は僅かに首を傾ける。「あたしも美怜のこと好きだよ?」
 勘違いされてる。
 嫌われてもいい。せめて、結衣と思いきりキスをしたい。
 身体をベッドに上げて、結衣を跨ぐ。
「なに? 美怜……」
 結衣の両手を握る。私は唇を近づける──
「美怜──」
 グッと、彼女の唇を塞いだ。
 舌を絡ませる。意外なことに、結衣も舌を絡みつかせてくれた。
 二人のアルコール臭が混じりあう。
 舌を抜いて唇を離すと、粘液が糸を引いた。
「どうして、こんなことするの……」
「結衣を愛したいから」
「え?」
「結衣を本気で愛したいから」
「それって、本当に本気で言ってるの?」
 私はうなずく。
「おかしいよね、変態だよね……私も、こんな自分が信じられない。でも、気持ちが止められないの──いつの間にか結衣のこと本気で愛してた。女同士なのに、結衣を心から求めてた」
 私の涙が結衣の頬に落ちる。
「ごめんね、結衣……私、越えちゃいけない線まで辿り着いちゃったみたい……。恋呪は、きっと結衣に反応してるの。結衣が誰かに抱かれるの、めちゃくちゃ嫌だった。嫉妬した。だから止めに行ったの。迷惑だよね、気持ち悪いよね──」
 諦めるつもりなのに、私は結衣の情を引こうとしている。
「ごめん、結衣。本当にごめん。正直な気持ちだけ、今伝えさせて。私のことを一生否定してもいいから……ただ一度だけでいいから、私を受け入れてほしい。結衣に、私なりの愛を注ぎたい……結衣を、抱きたい」
 思いの丈を言い切った。私は更に溢れた涙を拭う。結衣は微動だにもしない。きっと頭の中は否定の言葉で一杯だろう。
 その言葉が口から出ることを、私は恐れて、怖くて、耐えられそうもなくて、掴んでいた結衣の手を、少しずつ離した。
 ──けれど、逆に結衣が私の手を掴む。
「いいよ」
 結衣が上擦った小さな声で言った。彼女の円らな瞳が、潤む。
「抱いて」
 予想に反した言葉が、私を恐怖から解き放った。
「いいの?」
「いいよ──」
 結衣は(はな)をすする。
「あたしも、美怜に愛されたいから」
 喜悦が溢れて、笑みと涙が一緒に零れる。
 迷うことなく、もう一度唇を重ねた。貪るように結衣の肉体に触れていった。
 私たちは一線を越えて愛し合った。


  5


 あの日以来、私たちの距離はグッと縮まった。街中で結衣を愛撫しても、結衣は嫌がらなくなった。それはそれで淋しいけれど。
 時折、女同士でできるセックスをした。いつも結衣は私を受け入れて、興奮し、濡れてくれた。
 これがいつまで続くかはわからないし、いつまでも続ける気はない。でも、限界まで続けたい。せめて指輪が外れるまで。
 ……本当は、頭のどこかでこんな展開にできる自信があった。私の中にリアルな感情を湧かせて、結衣を思いどおりにしてしまう自信があった。元々私に依存していたんだし、あの男がどんなやつにしろ、上手く引き剥がしてしまえば、あとは情を引いて私のものにできると思っていた。
 結果、あの子の心も身体も手に入れた。
 結衣に対する固執や想いは、やはり恋呪のせいなのだろうか。それがよくわからない。以前の私は、結衣を手に入れたいと思うほどの気持ちがあっただろうか。……あったのかもしれない。だけど、一切表現しなかった。できなかった。だって、それが当たり前だったから。女同士、友達同士。それ以上を望むなんて、普通はできない。思っていてもできないし、しない。それが常識だから。
 恋愛は男女がするもの。愛情行為もそう。だいたい、結衣はレズビアンじゃない。それを私はよく理解していた。だから以前の私は、結衣の幸せだけを望んでいたんだと思う。結衣の幸せだけを、望めたんだと思う。
 でも……そんなの、もう不可能。きっと私は、この先も結衣を縛り付ける。
 それでいいんだ。もう自分を抑えるつもりはない。
 彼女は私のもの。私だけのもの。
 結衣だけの幸せなんて、私はもう興味がないから。


〈第五話 「愛したいから」end〉


第六話 »
colorless Catトップ


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