第六話 「勇気」‐寺西 太郎‐


 好きだという想いだけに留めて、諦める。それが僕。身の程をわきまえて、何もできない。
 行動なんて起こせるわけがない。動いた後のことを考えると、おそろしくなってしまう。逃げだしたくなる。相手が胸中に浮かべるであろう誹謗中傷が怖い。僕は不器用で口べただし、イケメンじゃない。鏡を見ると自分でもショックを受けて目を逸らすほどのブサイクだ。
 僕みたいなブサイクは、女性と時間を共にするなんてこと、諦めるしかない。それが賢い選択。
 僕みたいなのが女性に対して行動なんか起こしちゃいけない。


  1


 僕にとって女の子は、絶対に関わることのできない存在。隣の席に女子がいても、何光年も遠くにある星のようなものだった。全ての女子が、手に届かない高嶺の花。一生かかっても恋はできそうにない。そもそもそういうルックスじゃないんだから。
 恋よりも、まず新しい学校生活に慣れることの方が難題だった。非積極的な性格であるがゆえ、コミュニケーションを図るのは苦手で、高校入学から六ヶ月経た十月過ぎになってようやく友達ができた。僕が勇気を出して声をかけたんだけど。彼も同じく独りで過ごす人だった。汗っかきで太っちょの小林君。
 小林君はいわゆるオタクだ。それに気づいたのは友達になってすぐのことだった。彼は教室で堂々とギャルゲーやアニメなど、好きな二次元の話をしてくる。僕はほとほと困りながらも話を聞いていた。僕はオタクじゃないし、そういったゲームにさほど興味がない。普通のテレビゲームは好きだけど。
 だが周りの人たちはそんなことを知らないものだから、僕も小林君も、ギャルゲーやアニメオタクということでクラスでは有名になった。それにより非難されて、女子からも男子からも気味悪がられ、腫れ物のように扱われだしていた。よりいっそう、恋愛が僕から遠ざかる。
 僕は、ずっと恋に恋をしていた。小学生の時から恋愛ドラマが大好きで、自分でも恋愛することに夢を見ていた。二次元の子では現実の恋を育めない。
 夢見た恋愛は、誰ともできなかった。好きな子がいなかったわけじゃない。小学校五年生の頃にはいた。けれどその子はあまりにも可愛すぎて、一度も話しかけることができなかった。中学二年のとき、女子に気安く声をかけれるイケメン男子が、彼女を恋人にしてしまった。
 そのことを小林君に話したことがある。彼の家に遊びに行ったときのことだった。
 彼の部屋は異色さを極めていた。壁中にアニメの女の子たちのポスターが貼られていて、ちょっぴりえっちで可愛らしいフィギュアが、どこか計算されつつ棚に羅列している。本棚も萌え系の本ばかり。彼はバイトもしていないのに、どうしてそんなにも物が買えるのかと訊くと、どうやら両親とも正社員として共働きでお金に余裕があるらしく、欲しいものがあると言えばポンと万札を出してくれるらしい。彼が一人っ子、ということもあって甘やかされているのだろう。羨ましい限りだった。
 そんな彼と好きな人の話題になったときに、僕は好きだった女子の話をした。自分に自信がなくて話しかけられなかった、と腹を割って言った。
 すると、小林君はこう言った。
「太郎、お前が話しかけなきゃ、恋ははじまらんぞぉ」
 なぜだか、むずむずとした不快感を覚えたけれど、全くその通りだと思った。
「そんなこと言われても無理だよ」
 そう言ってみせると、小林君は僕を嘲笑った。
「お前は典型的なやつだなぁ。自分から勝手に無理って言ったら、それは絶対に無理なままだぞ?」
 やはりむかついたけど、その気持ちは呑みこんで納得してみせた。小林君は畳み掛けるように続ける。
「いいかあ、太郎。傷ついてもいいから声をかけろ。傷つくことを恐れるから、何もできないんだ。何も始められないんだ」
 僕のむかつきは最高潮に達する勢いだった。でも正論過ぎて何も言い返せない。ギャルゲーや、ラノベとかたくさん読んでるから、彼はそういった媒体から情報を得て言葉を発しているのだと思う。

 そんな彼の言葉は外見のギャップも手伝ってか、忘れられなくなった。けれど、無理だ。街で可愛い女性や綺麗な女性を見かけたって、絶対に声なんてかけられない。最初から諦めてしまう。そもそも何を話せばいい? 僕みたいなダサい奴から声をかけられたら、迷惑じゃないか。
 恋がしたい。けれど、相手はどう頑張っても見つけられそうにない。高校生活中にはまず不可能だろうと、既に諦めていた。
 瞬く間に時は流れて、学校は冬休みに入る。


  2


 今年の冬休みは去年と同じ。お年玉が貰えるということ以外に、喜ばしいことは何も起きないまま日々は過ぎた。
 お年玉で、欲しかったゲームを買い、冬休み終了までそれをやりこむ。
 そのゲームは思いのほかボリュームがなくて、毎日黙々とプレイしていたらすぐにクリアしてしまった。やり込み要素もあまりなかったし、今なら高値で買い取ってくれるから売ってしまおう、と考えたのは冬休みが終わる前々日のことだった。

 翌日。
 朝はいつも通り訪れる。僕は、何も起きなかった冬休みのことを少しだけ振り返った。
 今日が祝日にも拘わらず父は会社に出かけ、大学生の兄はバイトに行く。母もパートに出て、それから僕は起きた。リビングの椅子に腰掛け、遅い朝食を摂る。ふと、冬休みの宿題に全く手をつけていないことに気づいた。気づいたところでやる気はない。夏休みだってそうだった。僕にとって宿題は、休み明けにやるものだから。
 明日、短かった休みが明けて、いつも通りの退屈な学校が始まる。

 ゲームショップに着いて予定通りゲームを売却。良いお金になった。
 外に出て携帯の時計を確認すると、十二時を回っていた。さっさと帰って『いいとも』でも観ようか。
 足早に街路を歩み、駅へと向かう。
「──我々が独自に調査したところ、恋呪による傷害事件や、自殺などが、ここのところ急増しているらしいのです。恋を叶えられない人が最終的に気が狂って、誰かを傷つけるか、自分を傷つけてしまうんですねえ」
 テレビの声が僕の足を止めた。ショーウインドーの中にある大型のテレビが、その番組を放映していた。
「今まで専門家の方々が恋呪を否定してきましたが、最早その存在を認めるしかないでしょう。どうです、金村さん」
 最近よくテレビに出ている、脳科学研究家の金村がテレビに映った。
「恋の感情は、突き詰めれば生化学の作用です。なぜそのような現象が起こるのか、未だに信じられませんが、どうやら赤い紐を小指に結びつけるだけで、脳内で過剰な化学反応が起こるようですね」
 僕は歩みを再開し、その場を離れた。
「また恋呪か……」
 ネットで有名になり、二ヶ月ほど経て世間にもその存在が認められてきて、ここ最近テレビで恋呪特集がよく組まれるようになった。僕も実際に試したことがある。
 左手の小指に赤い糸を巻くと、それが指輪となり、恋を成就させられるようになる。
 明らかに胡散臭いまじないだけど、それでもやってしまった。そして、糸が指輪になることなんてなかった。恋呪の力を感じられることもなかった。
 実のところ、今だってジャンパーの左ポケットの中に赤い糸が入りっぱなしになっている。否定しておきながらも、僕は赤い糸をお守りのように持っていた。いつどこで素晴らしい出会いがあるかわからないし、勇気を持ちたいとき、気休め程度にそれを巻いて話しかけてみよう、と考えていた。……考えたのはもうとっくの前。一度だけ、その構想を実行したことがあった。
 恋呪を知って、赤い糸を小指に結ってもなんの効果もないと知り、それでもずっとポケットに入れ続けて一ヶ月ほど経ったある日。駅から家に向かって歩いていたとき、不思議な感覚を僕に満たすような、哀愁漂う女性とすれ違った。髪色は濃い目のブラウンで、ファーのついたブーツを履いていて、ジーンズを穿いていて──服の色とか、細かい部分まではよく思いだせないが、彼女は母親らしき人と一緒だった。僕は彼女の顔をじっと見つめていたけれど、彼女は一切こちらを向かない。その横顔が、ひどく沈んでいた。しっかり捉まえておかないとどこかへ消えてしまいそうな雰囲気だった。実際に母親がしっかり腕を握っていたけれど。
 なんていうか、何かがありそうな人だった。彼女の心を掘りだしてみると、とんでもないモノが一杯出てきそうだった。そして、暗い顔だったけど、笑ったらきっと素敵だろうな、と思った。
 ここですれ違えば、もう二度と会えない。そう思うと、無性にどうにかしたくなった。去っていく彼女の後姿を見つめながら、僕は咄嗟に赤い糸を取りだし、不器用ながらも素早く指に結いつけた。「恋の神様、僕に恋呪の力をお貸し下さい」と心の中で唱えつつ、後をつけた。
 しかし、やはり勇気が湧かず、彼女と母親らしき人は駅へ向かっていった。僕は引き返し、家に帰ったのだった。
 心のどこかで、もう一度彼女に会わないかな、と願っている。それもあって常に赤い糸を持ち歩いていた。……気休めに過ぎないんだけど。

 電車を降り、改札を抜けて、家へと向かう。僕と同じ電車に乗っていた人たちが、僕を越して去っていく。僕はいつも、視界の先に彼女がいないかと探していた。いつもいなかった。今日だっていない。
 いつかは会える。そんな気がする。そのときは勇気を持って行動を起こしたい。──とよく心に誓うものの、実際に面と向き合ったとき、僕は何もできないだろう。
 歩道に寄って、歩いていく。先には分かれ道。左に行くと、高級住宅街に突入する。見ているだけで溜め息が出るような、立派な家々が立ち並んでいる。広々とした庭、プール付きの家だってある。そんな場所に住んでいる人たちってどんな気分で毎日を過ごすのだろう。やれることがたくさんあって、飽きのない日々を送ってるのかな。
 僕の家はそちらの方ではなく、逆の右に曲がった先にある三階建てのデザイナーズマンション。両親は無理をして購入したらしく、未だにローンを払い続けているとか。僕はマンションじゃなく、広々とした田舎の一軒家に住みたかった。高級住宅ではないが、小林君は一軒家に住んでいる。一人っ子だし、誰もいないときはのびのびと家を使える。僕は兄と共有の部屋なので、小林君専用の部屋が完備されているのも羨ましかった。
 分かれ道に差し掛かる。と、左側から人の気配がした。ふっとそちらを向くと──
 全身が、硬直した。驚きのあまり足が勝手に止まった。
 出くわした相手は、例の彼女だった。間違いない。忘れることのできなかった哀愁を漂わせ、僕に不思議な感覚を満たしてくれる。ただ、今日の彼女は以前見たときとは比べ物にならないくらい、美人だった。メイクをしているからだろうか。ファッションが決まりすぎているからだろうか。僕みたいな人間が手を伸ばしていいはずもないような神々しさすら感じられた。それでいて、彼女は前回より格段に“消えてしまいそうな雰囲気”を身にまとっていた。
 彼女を目にした瞬間、僕は時間が止まったのかと錯覚した。そうじゃない。なぜか彼女も足を止めていた。これは、話かけるべきチャンスでは? なんて思っても不可能だ。彼女の前では言葉を吐くことすら許されないような気になってしまう。なんでもない女子の前でさえも僕はそんな気分に陥ることがあるのだから。
 不意に彼女が頭を振るう。その意味がわからないが、僕の横を通過していく──
 せっかく再び巡り会ったのに、このまま逃してもいいのか?
 そう自分の胸に問いかけても、僕の身なりを確認すると、彼女とはまさに月とすっぽんだった。灰色の安物ジャンパー。古臭い安物ジーンズ。加えて、鏡を直視できないほどブサイクな顔面。
 ……それなのに、なぜ彼女は足を止めた? 僕の気持ち悪さのあまり硬直したとか? そうかもしれない。いやきっとそうだ。もしかすると、僕の顔の印象が強烈すぎたから覚えていて、再びばったり遭遇してしまったから向こうもびっくりしちゃったんだ。
 僕なんかが、あんな美女と釣り合いがとれるはずもない。もう一回会えただけでも、僕の持ち得る幸運を全て消費したくらい今日は良いことがあったと思わなければ。きっと後の人生は不幸のどん底なのだろう。
 ……さようなら、哀愁の漂う不思議な美女。
『傷ついてもいいから声をかけろ。傷つくことを恐れるから、何もできないんだ。何も始められないんだ』
 どうして、小林君の言葉が脳裏を過ぎるのか。どうして、僕は急いで赤い糸を取りだして左手の小指に結っているのか。
 一つ結びで結い、簡単に外れないよう巻きつけてから、
「恋の神様、僕に恋呪の力をお貸し下さい」
 小声でそう呟いた。振り返ると、彼女はもう五メートルほど向こうにいた。
 ──傷ついてもいいから、僕は今よりも前進したい。
「あの」
 少し声が弱かったか。裏返りかけた高い声が出た。彼女は歩みを止めない。
 もう一声、かけよう。さっきよりもハッキリと。それで止まらないのなら、そのときは諦める。
 僕は喉に溜めた言葉を、勢いよく口の先に押しだす。
「あの、すいません」
 勢いよく、のはずだったけど、やはり弱々しい声になった。まあ元々そんな声なんだけど。
 だが彼女は、歩みを止めた。止めてしまった。それで僕を振り返った。顔を背けたくなる。まるで雑誌に載るような、ギャル系のモデルみたいだ。今の状況がおそろしく感じられる。でも、もう後には引けない。
「以前ここですれ違いましたよね?」
 それしか言葉は浮かばなかった。この先をどう繋ぐか、なんてのは全く考えられない。
 彼女はふっと笑い、首を振る。
「さあ。あなたとすれ違った覚えはないけど」
 どうやら僕を覚えていないらしい。きっと心の中で「何言ってんのこのカス男」とでも思っているだろう。それでも構わない。思い浮かぶ言葉を口にする。傷つきながらでも前進したいから。
「すれ違ったんですよ、あなたは覚えてないかもしれないけど──あ、そのときは確か、あなたはお母さんと一緒でした」
 彼女は、どこか驚いたような顔をした。ニュートラルの表情に戻ると、彼女は口を開く。
「本当にすれ違ったんだ。悪いけど、私は覚えてないから」
 次の言葉がない。というか、もう声すら発してはいけない気がしてきた。でも、無理矢理に言葉を紡ぎだす。
「僕ははっきりと覚えてたんです。あなたはとても、僕の印象に残ってた。前見たときはすごく表情が沈んでた。どこかへ消えてしまいそうな顔をしてた。何か嫌なことがあったのかなって、引っかかってて」
 そこで言葉を止める。相手の出方を待った。
「……嫌なことなんて、しょっちゅうあったよ。嫌なことだらけ。どこかに消えちゃいたいって今も思うし」
 意外だった。彼女が少し心を開いてくれた。それが、ひどく心地好かった。
「今のあなたは、この前会ったときと比べて、格段に消えてしまいそうな雰囲気が強くなってる」
 芯を突いたのか、彼女の目が少し見開いた。ぼんやり僕を見つめ、二度、はっきりと瞬きをする。
「じゃあ私が消えてしまわないよう、あなたがどこかへ連れてってくれる?」
 その言葉を聞いた瞬間、これは夢かと思った。あまりにも簡単に事が運んでいる。しかも、彼女から誘ってくれるなんて。
「僕が連れていけるところなんて、あなたには不釣合いな場所しかないですけど……それでもいいですか?」
 当然だが、彼女は迷っているようだった。断られるだろうと想定していたけれど、彼女はこちらに向かって歩いてくる。
「いいよ。どこでも連れてって」
 信じられない。乗ってきてくれた。
 彼女を持て成す、という重圧が僕の両肩に一気に伸しかかる。彼女は僕の傍で止まって横並びになった。目前にすると、本当に僕とはジャンルの違う人間過ぎて、激しい緊張が襲ってくる。サッと彼女がこちらに身動ぎした。なんなのだと思ったら、
「えっ!」
 オーバーに声をあげてしまった。だって、彼女が突然、僕の右手を掴んできたから。
 まずいよ、神様助けて! 動悸がする、今女の子と手を繋いでる!
「ほら、連れてってよ」
 はい連れて行きます、と言いたいけど声を出せないほどの焦りにみまわれていた。鼓動が早まりすぎて心臓がぶっ壊れてしまうんじゃないかと心配した。恋呪の効果はあるのかわからないが、こんな激しい緊張とかは鎮静してくれないらしい。落ち着かないと、不格好でダサいと思われて、嫌われてしまう──
「じゃあ、あっちに、行こう」
 真っ直ぐを指差し、たどたどしく言葉を発した。
「わかった」
 彼女は素直に了承してくれて、しかも僕を引っ張って歩みだした。そもそも彼女は駅に向かって歩いてきたのに、いいのだろうか。
 僕みたいな人間を「キモい」と詰るような人種だろう、とも思っていたけれど、彼女は純粋で良い人なのかもしれない。

 僕は歩くのが好きだ。駅に行くときは大概徒歩だし、休みの日はマンションの屋上から見た風景の、気になった場所まで足を運ぶ。自転車での移動もいいけれど、歩かなければ気づけないこともある。歩きだすと、だいたい一時間以上は歩く。散歩コースはもっぱら、栄えている方面ではなく、自然の多い閑散とした方面だった。
 お互い、簡単な自己紹介をした。未だ僕は彼女と手を握り合っていることが信じられずにいて、めちゃくちゃ動揺し続けていたけれど、主に彼女が喋ってくれたので気が楽だった。道中あまり僕は喋っていない。
 彼女が僕の名前を聞いたとき、「平凡すぎる」と笑われた。僕に比べて彼女の名前は華やかだ。長谷川(はせがわ)花梨(かりん)。容姿もそうだけど、名前も華やかだった。「素敵で良い名前だね」と感想を述べたら、「よく言われるよ」と返された。
 見た目がそうだけど、彼女は年上だった。けれど思った以上に離れておらず、同じ高校生だった。十八歳で高校三年。女子は大概、大人びている。
 聞いた話の限りだが、彼女は淋しい環境で育ったらしい。お父さんは会社の社長をしていて忙しく、お母さんはちっとも彼女の内面に寄り添ってくれないとか。親の話になると、彼女はどこか憎しみを籠めて愚痴るように声を出していた。
「ねえ、まだ歩くの? あとどれくらい?」
 彼女に何度そう言わせただろう。僕にとって三十分歩くのは大したことではないが、彼女にとっては果てしなく長かったらしい。途中通りがかったタクシーを拾おうとさえして、「それは勿体ないよ」と僕は止めた。金持ちだからなのだろうか、彼女は五分以上かかる場所は全部タクシーで移動すると言っていた。僕は一度も乗ったことないのに。
 そうして、目的の場所に着いた。
「ここって、神社?」
 見るからに神社なのだけど、彼女は確かめるように言った。
「見ての通り、神社だよ」
「……どうして神社に来たの?」
「ここの神社が好きだから」
「もしかして神社オタク?」
 いや、と僕は笑う。「ただこの場所が好きなんだ。木がたくさん生えてるし、それでいてこの神社は人が全然来ないから」
 雰囲気も良い神社なのにひと気はない。休日なのに──むしろ休日だからか、今日は誰もいないようだった。
「それに、途中でだいぶ道を上ったでしょ? ここは高所だし、この神社はより神様に近くなるようにと、高いところに社があるんだ」
 だが僕は神に願掛けするためにこういう場所を訪れるわけじゃない。神社には神よりも神聖な自然がある。名前はわからないけれど、多くの木々が生え聳えていて、深緑が天を遮っている。葉や梢の隙間を抜けたささやかな陽光が、一帯の雰囲気を更に神聖に、更に自然を感じさせる演出をする。
 鳥居を抜けた正面には石段がある。そこを上って眺める街の景色が好きだった。
「これ、上るの?」
「うん。……上りたくない?」
 彼女は明らかに嫌そうにしていた。やはり、こんな場所は彼女にとってつまらないだろうか。
 不意に、彼女は僕と繋いでいた手を離した。……ああ、ついに離れてしまうんだ。ここまでずっと手を繋いでもらっていたことが奇跡だったけれど、それでもいざ離されてしまうのはショックだった。こんな最低な場所に連れてきた僕の自業自得か。
「うおりゃああああああ!」
 びくり、と身が竦んだ。彼女が突然叫び声をあげた。それだけじゃない。走りだして、石段を駆け上がっていく。
 茫然自失。全ての思考が彼女の行動に流された。全段を上りきるまで彼女は叫び続け、社の前に着くと、ぜえぜえ息を切らしていた。僕は、半笑いしている。途中何度も彼女のスカートの中が見えたけれど、そこに喜びを湧かせる余裕もなかった。
 あんなことされたら、僕だってやらなければならない。
「うおおおおおお!」
 彼女に負けじと声を張り上げ、階段を駆け上がった。
 あっという間に社の前に到着。お互い息を切らせば、僕らの間に白い息がたくさん浮かんでは消えていった。
「長谷川さんは、ユーモアがあるね」
「それはこっちの台詞だよ、こんな何もないところに私を連れてき……」
 彼女の声が止まった。街を、眺めている。景色に心を奪われたようだった。坂の下り方面に生える木々の天辺は、僕らの足元ほどの高さしかなくて、そのお蔭でまるで木々から顔を出しているような気分になれる。そこから街を一望できた。
「大きく深呼吸してみてよ」
 彼女はちらっとこちらを見て、また景色を望む。言い忘れていたことを思いだし、彼女の横顔に向かって付け加える。
「息を吸うときは鼻で。お腹に空気を溜めるような具合ね。吐くときは、口で吐いて」
 彼女は、素直に息を吸い込んでくれた。肩が上がっていき、肺に新鮮な空気が大量に流れ込む。そうして二酸化炭素を多く含んだ息を吐きだす。息は薄っすら白く色付いていた。
「どう?」と、感想を訊いてみる。彼女は僕を向き、数秒見つめられた。緊張して目を逸らしたくなるけれど、なんとか見つめ返す。
「どうして、こんなことをさせたの?」
 僕は、彼女にこういったことが必要なんだと直感していた。
「長谷川さんには、自然の新鮮な空気が必要だと思って」
 どこか病んでいたようだったし、そういう人ってきっとゴミゴミとした人間環境に心を汚染されているんだと思う。誰もいない自然の中で、自分らしく呼吸をすれば、消え失せそうな彼女も自分を取り戻せるんじゃないかと思っていた。
 長谷川さんは再び街に目を向ける。一帯を見渡した後、深呼吸を始めた。身体の不純物を全部吐きだしてしまうように、何度も。隣で僕も一緒になって深呼吸をした。

 僕たちは石垣に腰掛けて、両足は重力の方向に垂らしながら、隣り合って街を眺めていた。
「僕にとって、女の人って巨大な壁だったんだ」
 僕は心の内を切りだした。
「壁?」
「うん、越えられない壁っていう意味。全ての女の人がそう。絶対に関わることのできない存在で、たとえ隣に」
 僕は右側を向く。長谷川さんに顔を合わせ、思ったことを言う。
「長谷川さんのような綺麗な女性がいてくれても、遥か彼方、何光年も遠くにある星のような存在なんだ」
 彼女はふっと笑った。「大袈裟すぎる。私は隣にいるよ?」
「そうだけど、それでも手が届かない存在に見えちゃうんだ。ほら、見ての通り僕って女性をつかまえられるような顔じゃないでしょ?」
「顔なんて関係ないよ。そんなふうに思いながら、よく私に声をかけてくれたね」
 よくも私に声をかけやがったな、というふうに聞こえた。いや違うだろう。彼女は薄っすら笑ってるし。
「僕の友達が、前に進みたかったら傷ついてもいいから声をかけろ、って言ってくれたんだ。そうしなきゃ何も始められないって」
「私に声かけて、太郎は前に進めた?」
「進めたよ。地上から一気に月までぶっ飛んでった気分だ」
 長谷川さんがくすっと笑ってくれた。僕は嬉しくなってしまう。
「長谷川さんは、どうして僕なんかに付いてきてくれたの?」しかもずっと手を握っていてくれた。
 なんとなく答えはわかる。ただの暇つぶし。僕をからかいたかったとか、たまには一八〇度違う人間と遊んでやってもいいか、とかそんな理由なんじゃないかな。
「面白いことがありそうだったから。私のこと、ちょっとは見抜いてくれたし」
 彼女の消え失せそうな雰囲気を見抜けていたのは、ポイントが高かったらしい。それだけでこんな夢のような時間を過ごせたことを、僕は本当に幸せに思う。……彼女にとっては、どうだっただろう。
「長谷川さんにとって……ここは面白い?」
 彼女がこちらを向く。顔を合わせるたび、僕は夢を見てるんじゃないかと思わされてしまう。
「刺激的で面白いよ。何もなさすぎるし、誰もいないし、最高の平凡な景色と最高の空気が吸える。こういうところに来るのも、悪くないなぁって思った」
 僕もそう感じていた。刺激的ではないけれど、後はだいたい一緒。毎晩クラブに繰りだすような、僕とは正反対の人かと思っていたけれど、意外と嗜好が合うのだろうか。
「今まではどんな世界にいたの? 僕なんかとは真逆の世界にいた?」
 彼女の顔色が変わったのをなんとなく読み取った。
「太郎が想像もつかないような世界にいた」
 そんなことを言われると、無理にでも想像したくなる。
「長谷川さんって、何かありそうだよね。両親のこととか以外にも、心の中を覗くとすごい事実が一杯出てきそう。最初見たとき、そういう暗い顔をしてたから」
「……今まで私が何してきたか、聞きたい?」
「聞かせてもらえるのなら全部知りたいよ」
 それこそ夢のようだ。まるで天よりも上の高貴な位置にいる彼女の、その人生に触れさせてもらえるなんて、誇らしさすら感じてしまう。
「私、風俗やってたし、売春もしてた」
 思考が、止まる。
 次に、まるで心の中で幕が下りるような感覚があった。明るく見えていたはずの景色が、薄暗い情景に映りだす。
 彼女が淡々と、自分のことを話しだした。僕は黙って聞くしかなかった。

 確かに想像もつかないことだった。僕ができる貧相な予想を遥かに超えていた。
 ずっと優等生として生きることを強いられてきた彼女は、高校一年から自分の肉体を売っていた。売春と風俗。たった二年足らずで二百人近くの男と寝た、という。様々なドラッグにもハマっていたらしい。覚せい剤と大麻以外は名前を聞いてもピンとこなかった。
 彼女はおもむろに左腕を見せた。そこには身の毛もよだつような生々しい傷跡の数々。腕全体がズタズタに切り裂かれたようになっていた。自分でやった傷らしい。
 稼いだお金は全てホストに貢いだと言っていた。大好きなホストがいて、そいつがナンバーに入るように豪快にお金を使う日々を繰り返した。けれどある日、高校の同級生が彼女のしていることを先生に話してしまい、それによって両親に全てを知られて、ホストにも嫌われてしまった。元々厳しい両親で、何か失態がある度に彼女は卑下されて殴られていたらしいけれど、身体を売っていたことやホスト通いがバレたときは、父親に気絶寸前まで殴り倒されたという。そのときは本気で死のうと、手首の上で力強く刃を引いた。その傷は残っている痕の中で、一番はっきりと刻み込まれている。
 ナイフは動脈に届かず、彼女は死ねなかった。そのまま精神科に入院させられた。僕が最初に見かけたときは、恐らく母親と病院に行くところだったのだろう、と彼女は言った。
「それで、私は明日死ぬつもりなの」
「──明日?」
「そう、明日。つまらない学校に行くつもりはない。つまらない人生を、これ以上繰り返すつもりもないから」
 彼女は立ち上がる。この石垣からぴょんと飛んじゃうんじゃないかと不安になった。
「本当に明日死ぬの?」
 本当に死ぬ気なのはわかっている。それでも訊いた。彼女はそっぽを向いてしまう。
「死ぬよ。遺書も書いた。死に方も決めてる。確実な方法。お母さんに、行ってきますって言って、学校に行く振りして、電車に飛び込むの」
 そんなあっさり言うもんだから、現実感が湧かなかった。でも、本気で受け止めて何か策を打たなきゃ──
「長谷川さんに、死んでほしくない」
 なんて芸のない台詞だろう。僕なんかにそんなことを望まれて、嬉しいわけないじゃないか。
「死ぬって決めたから。この世界は生きる価値なんてないんだよ。そもそも、私が生きてる価値もないんだから」
「あるよ!」
 僕は大声をあげていた。立ち上がり、思った言葉を素直に言ってみせることにした。作り物でも借り物でもない、僕の素直な思いを伝える。
「価値がある、って僕が長谷川さんに思わせてみせる。他にももっと、刺激的などこかへ連れていくから」
 だが連れていくといっても、そこは公園とか、リラックスできる森林とか、夕陽が綺麗な堤防、ぐらいなんだけど……。でも、長谷川さんには都会よりそういう何もないところにいる方が必要だと思う。
「何があっても、もう死ぬって決めたんだから」
 僕の思いは意図も容易く圧し折られてしまった。彼女は歩きだしてしまう。僕は口を開く。
 待って、行かないで、君のことが好きなんだ、だから僕のために生きて。
 ……なんて、言えるわけなかった。これは傷つくのを恐れて言えないわけじゃない。その言葉は何か違う。彼女にとって迷惑でしかないような気がするし、僕のために生きるだなんて、考えたらひどくつまらなくて酷だ。
 開けた口を閉じた。石段を下りていく彼女を見送る。
 ……このまま、行かせていいのか? 明日彼女は死ぬ気なんだぞ。
 いくら引き止めたいと思っても、彼女を追えない。もちろん死んでほしくない。そう強く心に思うも、身体が金縛りにでもかかったかのように動かなかった。
 ついに彼女は石段を下りおえる。もし、彼女がこちらに振り向いて僕を求めるような仕草をとってくれたら、追いかけよう。一度もこちらを向かなかったら、もうそれは僕に興味がないってことだから。
 彼女は鳥居に向かって歩いていく。
 一度も振り返ることなく神社から出ていった。

 彼女にもしなんらかの想いがあるのなら、きっと戻ってきてくれる──だなんて、僕は勘違いしていた。神社でいくら待っても、彼女は戻ってこなかった。
 左手を持ち上げ、小指を見る。
 ……何が恋呪だよ。全く効果ないじゃないか。
 恋の神様なんていないんだよ。恋呪なんてただのおまじないだ。まあ、仮に恋呪で思い通り恋を叶えられるなら、もっと早く有名になってるだろうし、街で見かける誰もが赤い糸を小指に結っているだろう。そんなのは数人しか見たことない。
 赤い糸を指で摘まむ。ビッ、と引き千切った。ポケットに突っ込み、僕は立ち上がる。
 ふっと彼女の顔を思い浮かべる。思いだせば思いだすほど、僕には不釣合いな女性だったと強烈に感じた。共に行動できたことが奇跡のようだった。ブサイクな僕の手を握ってくれたなんて、一生の思い出になる。
 右の掌を見つめる。握って、開いて、また握る。彼女の手の温もりを思い返す。
「……どうして追わなかった?」
 そう自分に言い聞かせると、とんでもない過ちを犯したのだと気づいた。
 同時に、僕は石段を駆け下りた。

 いくら道を走り回っても、もう彼女はどこにもいなかった。完全に手遅れだ。土下座してでもあの時止めるべきだったのに。
 冷たい風が吹きつける。動いて上昇した体温が容赦なく奪われていく。
 彼女には二度と会えない。そう思うと、涙腺に指令が飛んだ。泣いたって彼女は見つからないのに。
 溢れ落ちそうな涙を拭う。瞼を開いて──ふと、冷風と共に何かが流れてきた。地面を転がり、時には浮かんで飛ぶ。それが、僕のジーンズに引っ掛かった。
「赤い糸……」
 手に取り、腕を持ち上げて、顔の前で糸を眺める。糸は小さな輪を作っていた。何も知らない人にとって、それはゴミとしか思えないだろう。僕は即、恋呪を連想した。誰かが僕みたいに恋を諦めて外したのだろうか。それとも、僕みたいにお守りのように持ち歩いていて、知らないうちに落としてしまったか、捨てたのだろうか。
 腕を下げて、糸を摘まんでいる親指と人差し指を離そう──と思っても、指を離せなかった。
 輪の部分を左手の小指にあてがう。僕の指は細いから、すっぽり入りそうだった。指にはめようかどうかを迷う。
 ……糸をはめたところで彼女は見つからない。
 止めて、ポケットに仕舞った。前を向き、僕は歩きだす。
 赤い糸を結んだところで、彼女が明日死ぬのは変わらない。


  3


 朝はいつも通り訪れる。僕は昨日のことを振り返りつつ、急いで着替えた。鞄を持ち、母には「朝の補習があるから」と適当に言って、朝食は摂らずに家を出た。
 高校へは自転車で通っている。駅の方面とは逆方向にある学校だから。
 でも今日の僕は自転車で駅に向かった。全速力で。
 一帯に駅は数箇所あるけれど、恐らく彼女は僕らが出会ったあの駅に来るはず。もしかしたらもう自殺は思い留まっているかもしれないが、それは仮定に過ぎないから、やはり彼女を探す必要があった。
 赤い糸は指に結っていない。でもお守りのように、僕がつけていた糸と拾った糸をポケットに入れていた。
 自分のしている行動に緊張はしている。彼女に面と向かうことを想像すると、頭のどこかで逃げだそうと思考する。それらはそのままにしておいて、僕はしたい行動を貫いた。
 傷ついてもいいから、どんな関係でもいいから、彼女の傍にいたい。彼女が生きることを望まなくとも、僕が彼女の生を望む。

 駅に着き、一番安い切符を買い、改札を抜ける。上りか下り、どちらのホームかわからない。とりあえず上り側の電車が来るホームへと駆けた。人混みを抜けて階段を上り、ホームに出る。辺りを見渡して、彼女の姿を探す。
「──いた」
 見つけた。本当にいた。けれど、僕は二分の一の選択を誤っていた。彼女は逆側のホームに立っている。しかも電車が入ってくる方に寄っていて、黄色い点字ブロックを越えていた。
 ──どうして、誰も不審に思わないんだ。もう少しで電車が来てしまうのに。
 口を開きかけ、閉じた。冷静になった。名前を呼んではいけない。今呼べば、彼女は逃げるようにレールの上に飛び降りるかもしれない。
 僕は走りだす。駆け足で階段を下りて、逆側のホームに出る階段を駆け上がる。
「まもなく、電車が参ります」
 アナウンスが聴こえると、僕の脚力が増した。
 階段を上りきり、電車の走行音が耳に入る。彼女の姿を捉え、僕は猛進する。彼女が、一歩足を踏みだす。
「長谷川さん!」
 呼んで、腕をしっかり掴んだ。身を竦めてよろけた彼女を引く。黄色い点字ブロックの内側まで無理矢理、引っ張る。
「何するのよ」
 冷ややかな眼差しを向けられた。上りのホームで姿を見つけたときも思ったことだけど、意外なことに長谷川さんは紺色のセーラー服を着ていた。僕の勝手な想像では、彼女に僕のようなブレザーの制服を着せていた。
「止めに来てごめん。どうしても放っておけなかった」
 彼女はそっぽを向く。電車がホームに入ってきた。予感がして、力をこめる。彼女が腕を引っ張った。僕はその腕を引いてみせる。電車は轟音をたてながら、完全にホームへ入って止まった。
 俯く彼女に対する言葉を、一生懸命考えて、口にする。
「死ぬのは、また今度にしよう」
 彼女はこちらを向く。虚ろな目をしている。
「僕は、君が生きることを望んでるんだ。勝手な言い草かもしれないけど……できることなら、もう少し生きて欲しい」
「もう少し?」
「うん。それで、僕がその少しをどんどん膨らませていくから」
 彼女は小ばかにするように笑う。
「あんたに何ができるっての?」
 たったそれだけで僕の心は挫けそうになってしまう。こんなにも弱かったっけ……昨日はもっと強気でいられたのに。
 とにかく、彼女を見据えた。「何かはできるよ。長谷川さんにとっては、くだらないことしかできないかもしれないけど」
「だったら興味ない」
 彼女は腕を引っ張る。絶対に離したくなくて、彼女の腕を固く握った。
「離してよ」
 首を振る。「お願いだから、死なないで」
「もう死なないよ」
 そう言われても、それが嘘のようにも聞こえて離せなかった。
 僕たちの様子を見ていた人たちは、ドアが閉まる警告音に慌てて電車に乗り込んだ。長谷川さんと僕は沈黙し、そのうち電車が出発。これ以上握り続けているのは迷惑かと思い、ようやく彼女の腕を離す。その際「ごめん」と謝った。
「謝るくらいならここまで来ないでよ」
 冷たく言われて、ついまた「ごめん……」と謝った。すると彼女に大きな溜め息を吐かれた。僕の胸にちくりと棘が刺さったように感じられる。それでも、前に進まなければならない。今、僕が後手に回れば、彼女は死の道へ進んでしまうから。
 ……でも、どうしたら彼女の生の意識を固められるだろう。
 考えても思いつきそうにない。これ以上何も浮かばないのなら、あとは僕の想いを告げるしかないように思えた。それが断られてもいい。傷ついたって構わない。彼女が死んでしまう前に、全部言っておきたいから。
「長谷川さんが好きです」
 驚いたように彼女はこちらを見上げた。
「僕なんかに好かれて気持ち悪いかもしれないけど、でも、好きなんだ。好きな人が死ぬなんて耐えられない。たとえ君が僕を嫌いだとしても構わないから、まだ生きていてほしいって思うんだ。勝手かもしれないけど……」
「太郎のために生きろって?」
「そうじゃない。そんなことは言ってない。……好きな人に生きててほしいって思うのは、悪いこと?」
「……思うだけなら、自分勝手で悪いこと」
「それなら」意志を強くし、声音をはっきりとさせる。「僕にできることをさせてほしい」
「できること?」
「うん。何ができるかはわからないけど……。たとえ君が僕を好きじゃないとしても、なんらかの支えになりたい。君が迷惑だと思わない位置で、ひっそりと力になっていたい」
 彼女は俯く。……心に届かなかったのだろうか。それ以上言葉は浮かばず、無言が続く。
 彼女が顔を上げた。
「私、身体を売ってたよ?」
「うん」
「今まで何百人と寝たよ?」
「うん」
「色んなドラッグやってきたよ?」
「うん」
「これからも……誰か知らない人とセックスするかも」
 さすがにそれは心が苦しくなるけれど、それでも「うん」としか言わない。
「それでも私が好き?」
「うん。……長谷川さんが誰か他の人と付き合うのは悲しいけど、全部受け止められるよう、努力する」
「やめてよ……」
 なぜか彼女が涙声になる。
「やめろと言われたら、やめるけど」
「そうじゃない」彼女は首を振る。「胸が苦しくなったから、やめてよって言ったの……」
 彼女は洟を啜っていた。
「太郎、私なんか好きにならないほうがいいよ。幸せになれないから」
 急にそう言われ、僕は虚しくなってしまう。
「太郎ならもっと良い人つかまえられる。アンタ、顔は悪いけど性格はすごく良いから。それに背もそこそこ高いし」
「僕は、他の誰かじゃなくて、長谷川さんが好きなんだよ」
 彼女は首を振った。「私なんか、好きになる価値ないから──」
「あるよ」
 本当はもっと大きな声で遮りたかった。逆側のホームには人がいるし、こちらのホームにもまた、人がやってきたから、仕方なく声を抑えた。
「長谷川さんが女性である以上、誰かから本気で愛される価値はあるはずだよ。少なくとも、僕は本気で長谷川さんを愛したいって、思うから」
 勢い混じりの言葉だった。現状確かに長谷川さんが好きだけど、本気で好きで居続けなければならない、というプレッシャーを自分でかけてしまって、若干逃避的な気持ちが湧く。それは心の奥底に押しやる。
 彼女は辺りを見回してから、僕に目を合わせた。
「人が多くなったね」
「うん。僕ら、目立ってきた」
 彼女が微かに笑ってくれる。
「太郎の知ってる、刺激的な場所に連れてってよ」
 僕は自然と笑みを零した。
「いいよ。でも、つまらなさすぎて後悔するかも」
「どこ行ってもここよりはマシだろうから大丈夫」
 僕は二度うなずく。
「わかった。行こう」
 手を繋ぎたい、と過ぎった。もちろん繋ぎにはいかない。だって、迷惑だろうから。
 僕は振り返って、歩きだす。
 すると、いきなり僕の右手が温かいものに包まれた。その温もりは、身体の奥深くまで沁みこんでくるようだった。
 手を取ってくれた彼女を向く。
「ありがとう」
 彼女は小さく首を振った。
 僕らは横並びで歩きだし、駅を出た。

「どこに行くつもり?」
 自転車を漕ぐ僕の背中から声がした。女性と二人乗りは当然初めてで、こんなふうに会話できることが嬉しかった。
「日溜まりが心地いい堤防」
 鼻で笑われる。「素敵な場所」
 皮肉を籠めていることは分かっていた。
「水切りしたことある?」
「ミズキリ? なにそれ?」
「──知らないの?」
「知らない。なんなの?」
 知らない人もいるんだな……。「石を使って、水面を切っていくの」
「水面を切る? どうやって?」
「見ればわかるよ。やれば良い運動になるかも。寒いのも紛れる」
「ふーん」
 あまり興味はなさそうだ。でも知らないのであれば、きっと目にしたとき新鮮な好奇心が湧く。そういうのが、彼女を死から遠ざけるはず。
「長谷川さん」
「なに?」
「まだ死にたいって思う?」
「……今日はもう思わない。水切りに興味があるから」
「今日は思わないってことは、明日以降は死にたいと思うかもしれないの?」
「うん。人生どうなるかなんて、わからないじゃん」
「そうだけど……」
 悲しくなってしまう。けれど、無理に死ぬなとは止められない。言ったところであまり意味もない気がする。
「今日帰ったら、学校行ってないことが親にバレて怒られる」
「一緒に怒られてあげるよ」
「ほんと?」
 どこか嬉しそうに言葉を返してくれた。これは正しいようだ。
「うん。僕にできそうなことだから」
「太郎の家は大丈夫なの?」
「うーん……怒られはしないよ。多分」
「怒られそうだったら、私が一緒に怒られてあげる」
「本当?」
「うん」
 なるほど。確かにこれは言われて嬉しい。
「ありがとう」
「ただのお返しだよ。怒られてくれるお返しに怒られてあげる」
「長谷川さんは、やさしいね」
「太郎もね」
「僕はやさしくないよ。僕がしたいと思うことをするだけだから」
 だいたい、心の片隅では今の状況に怯えてしまっている。僕の想像する優しさとは、マザーテレサのような行いだ。僕は自分が幸せになりたい上で、彼女に何かをしたいと思っているのだから、こんなのは本当の優しさではない。
「明日は学校に行きたくない……だから、明日こそ死のうかな」
 逃げだしたいという感情のスイッチが入る。いいや逃げださない、と逆のスイッチを入れた。
「それだったら、最初から学校に行かないってことにした方がいいよ」
「行かなかったら親に怒られる」
「そのときは僕が一緒に怒られるから」
「太郎は学校どうするの?」
「長谷川さんと一緒にサボる」
 そのままいくと僕の人生は堕落してしまいそうだけど、仕方がないのかもしれない。
「それでまた、怪しげな刺激をくれる?」
「うん」
「……太郎に迷惑かけれないから、やっぱり私は明日死ぬ」
 どうしてそんなことを言うのか。少し怒りが湧いた。
「死なれるほうが迷惑だよ」
「大丈夫。明日になっても、明日死ぬから」
「どういうこと?」
「そのままの意味。明日になったら、明日死ぬ。明後日になっても、明日死ぬ」
 意味を理解できて、僕は笑った。
「ずっと明日死ぬんだ」
「そう」
「心配だけど、無理して生きようとするよりはいいかもね」
 生きようとしてくれるのなら、明日死ぬという考えを続けるのもありなのだと思えた。そうして、僕が彼女に生の希望をもたせて続けてあげたい。
「だったら僕は、長谷川さんに明日生きたい、って思ってもらえるような努力をする」
「例えばどんなこと?」
 そう言われると困ってしまう。具体的には思いつかない。
「わからないけど、とにかく僕のできることをするよ」
 貧相なことしか思い浮かばないけれど、僕は彼女と共にいたいから、何かをしたいという気持ちが生まれているのだと思う。
「期待してないけど、ありがと」
 そんな言われ方は、少しだけ重圧を軽くしてくれた。
 不意に違う重圧が僕の背中に伸しかかる。喜悦を溢れさせるような、彼女自身の重み。身体をピッタリとくっつけられて、僕の鼓動は早まってきた。温もりが身に伝わり、この命を守っていきたい、という想いを強くさせる。僕に勇気をくれた小林君や恋呪に感謝の念が湧いた。
 好きだという想いだけに留めて、勝手に全てを諦めたら、そこで恋は終わってしまう。行動に移せる人たちは、前に進んだ人なんだ。
 僕は、傷ついてもいいからと前に進んだ。
 その行動が今、彼女といられる幸せを生んだ。
 彼女の心を支えた。


〈第六話 「勇気」end〉


第七話 »
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